連載571.小説『山を仰ぐ』第8章発明家ー②開産社と博覧会ー5

石上 扶佐子

2025年01月29日 20:00

連載571。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー②開産社と博覧会ー5

 開産社は半官半民の会社で、貧民救済も含む、殖産興業のための金融が主な事業でした。
 原資は、官員や有志による救済のための積立金を利用したり、筑摩県の県官や県内の士族一同が出資したり、大庄屋が出資しました。
 また、所有地を持つ農民全員にその土地に応じて、米穀を出資することを義務付け、これらは、災害飢饉時の備えとして、各村に備蓄されました。
 大蔵省からも、十年返済の融資金が三万八千円(今の15億くらい)ありましたので、その抵当として、設立と同時に、設立発起人兼社長に任命された、大区の三十人の区長が、自分の土地を担保にしたのです。
 三十人の社長の他に、各自の仕事と兼務をかねた開産社方と呼ばれる社員が六十七人いました。
 筑摩県は飛騨国一円と信濃国から成っており、開産社は南部の信濃国を営業範囲にしていました。東・西筑摩郡、南・北安曇郡、上・下伊那郡、諏訪郡、飛騨大野郡です。
 このようにして、明治七年十二月、開産社は松本の中心地、北深志二二八番地に設立され、明治八年三月十五日に開所式がおこなわれました。
 勧業社の時代から、社長は郡下の30の大区の区長が交番で務めてきましたが、その年の十二月からは、橋爪多門さんと中田貢さんの二人が定詰の社長に任命され、開産社の事業が積極的に進められて行きました。
 明治九年の二月には、開産社女工場用の家屋敷の修繕と、展覧場の家屋敷修繕、三月には織工教師雇い入れに着手し、四月には植物園の整備と展覧会場のための書記二名、小使い一名を臨時雇用しました。
 織場の費用の半年分を予算化し、五月には、人力車25輛購入の要請するなど、矢継ぎ早に事業を推進していたのです。
 それは、辰致さまの機械と関係がありました。

 (次回、連載571に続く。
 写真は、穂高教会毛見先生撮影の「大寒の日の後立山連峰」です)

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