連載569。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー②開産社と博覧会ー3
辰致さまは波多に来てから、本来なら1~2年はかかるはずの作業を、3~6か月で終わらせて水車をまわしたと言われています。これは驚く程のことで、事前の計画と、技術力と、波多の衆の資金の援助があったからでした。
辰致さまは熱意に溢れていて、寝ないでもやりとげたのです。「何が何でもやった」のでした。
水車は手押しでしたが、それでも、水車に連動する機械であることが証明されたこの日、信飛新聞の記者が取材に来ていました。信飛新聞は筑摩県の新聞で、主筆の市川量造さんは、開産社の社員です。
明治九年二月二十九日火曜日、『信飛新聞』は次のように伝えています。
『四大区波多村において、木綿製糸器械並びに、製布器械の新発明ができました。試しの上、器械場築造に取り掛かったそうです。
その機械は、水車に仕掛け、およそ一日に、日本綿百把を糸にし、布は三十反を織るそうです。
追々(おいおい)増築して盛大にするため、有志者が協力勉強しているそうであります。
当今は、器機を造り,人手を省き、物産を開いて、国益を興すが国家富饒の最も急務であります。
それに引き換え、無知無学者のたわけものが陰で、(機械製作者を)山師だと何のと悪口を叩く者が有るそうですが、その様な奴に限って、糞造器機・クソバカリタレルの無用者・ヤクタタズであります。
波多の諸君よ、何でも奮発しめ、一日も早く落成の程を待ちます』
信飛新聞のこの記事によると、
『波多での機械場築造の、一日も早い落成を待ちます』とあり、熱烈応援してくれてますね。でも、
『無知無学のたわけ者が、陰で、悪口を言っている』ということも判ります。波多にいる私の耳にも時折は入ってきたことですが。
(次回、連載570に続く。
写真は、一年前の今日、遠州森町で。両手に花のむさむさしい方は、大工の次男と静岡の従兄弟です。めったに会えないけれど、お元気でね)