連載617。第9章・栄光と事業の困難-①再婚と天皇の天覧ー4
(臥雲辰致との縁談を持ってきた波多腰さんと、父の前で、糸は、縁談は嬉しいが、次の代の男子を養子にするから辰致を無理に婿にはしないでほしい、と言いました。語りは糸)
なんとまぁ、口が良く回ること。自分でもびっくりです。
波多腰六左さんは、藩や県が放り出したあとも私財を投じ、波多堰を完成させ、四百町の土地に水を引いて田を作ったツワモノですし、上波多、下波多、三溝が合併した波多村の副戸長ですし、連綿社の頭取でもあるのですから、今、糸がもの申した男は、なかなかの大物なのです。もちろんうちの父さんだって、絶対の権限を持つ家父長制の家の頭ですもの。
糸はのんきで従順な娘のはずなのに、大の大人を前にして、よくも、こんなことが言えたものだ、と我ながら驚きました。なぜ、こんな力が突然湧いてきたのか?
糸にはわかっていました。それは、糸が辰致さまを大切に思っているからでした。辰致さまのために、これだけは言わねばらならない、と咄嗟に思ったのです。
波多腰さんは、言いました。
「糸さんの気持ちは、よく、分かったじ。糸さんが乗り気になってくれ、結婚しても波多に居てくれるなら、それで十分だ。
博覧会は終わったが、臥雲さんは東京で、連綿社東京支社の立ち上げに奔走しているでね。東京から早く帰ってもらうためにも、わしらは早々に、この縁談を進めたいだ。臥雲さんには手紙で縁談の話を勧めてみるだじ」と。
父さんは、相変わらず苦虫を噛み潰したような顔で、無言のままでした。
波多腰さんが、早々に席を立ちお帰りになったので、糸も父を座敷に残して、家の仕事に戻りました。気分としては、誠に痛快、愉快でしたよ。
自分の最も言いたかったことを言えて、それも、辰致さまとの縁談が進むかもしれなくて。
もうすぐ、東京の辰致さまの元には、正彦さんが行き、波多腰六左さんからの手紙が届いて、糸との縁談を勧めてくれるのです。わくわくする気持ちで、胸がいっぱいでした。
「辰致さまは、なんと言うかしら」という心配もありましたが、以前に一度お断りされているので、もし、お断りであっても、ま、しかたないか、です。全体としては、とても幸せでした。事態は前へ動いたのですから。
(次回、連載618に続く。
写真は、隣人の家の前の満開の藤)