連載618。小説『山を仰ぐ』第9章・栄光と事業の困難-①再婚と天皇天覧ー5
(いつもはのんきな糸が、大の男二人を前に、きっぱりともの申すことができたのは、辰致を思うが故でした。語りは糸。)
辰致さまと連綿社副頭取の武居正彦さんが、神田連雀町に東京支社を立ち上げたのは、博覧会が終わって十日後の十一月三十日のことです。
東京支社は、松本本社とは違って、主に機械を売るための会社です。博覧会中に二十二台、最高賞をもらった後も、全国から五百八十五台の注文が殺到したので、博覧会中に取りまとめた連綿社条約にのっとって設立されました。
博覧会出品の後片付けをしながら、東京支社設立の事務をこなし、注文を受ける業務は多忙を極め、正彦さんが学業の傍ら小石川から上野へ毎日通ったのです。
東京で指物大工を探し、秘密を守ってもらう約束でガラ紡を製作してもらい、出来た順に発注元に送る仕事をしてくれる人を雇い、お金の管理と支社の事業の全般を、定期的に正彦さんに見てもらう、ということにしました。正彦さんは連綿社の副頭取でしたから。
その折、正彦さんが糸との縁談を勧め、追って波多腰さんからも手紙が届きました。辰致さまは「考えさせていただきます」ということだったらしいです。「今は仕事で忙殺されているので、落ち着いたら、考えます」ということで。
十二月に入ってからは、博覧会に持っていったガラ紡を、三河岡崎の額田郡滝村で水車に取り付けるというので、辰致さまは、そのための改良方法や手筈を段取りするのに忙しかったのでした。
綿は千二百年前に三河に漂着した綿種が初めで、三河は日本で一番早くに綿の栽培が始まり、以来、綿栽培や綿製品の製造が盛んです。
松本周辺で綿に携わる人の多くは、三河の綿を購入していました。辰致さまの実家の横山家でも、足袋底に織る綿は三河の綿です。連綿社で紡糸、製布に使う綿も三河の綿です。
松本平と三河の縁は深く、三河の人は博覧会で、いち早くガラ紡の価値を理解したのです。
東京での仕事に区切りを付けて、辰致さまが松本に戻ったのは、十二月も半ばのことでした。
(次回、連載619に続く
写真は、立派な鯛があったので、①2パック4尾を買い、②三枚におろし、③刺身にしたり、④煮つけにしたり、⑤味噌漬けにしました)