連載385。 小説『山を仰ぐ』第6章・幕末から維新へ(文久元年・1861年~明治4年・1871年)―①栄弥の寺と、正彦が語る幕末ー2
 (前回から、第6章が始まりました。時代は下りましたが、語りはまだ俊量です)

 栄弥さんを引きとってくれた岩原の安楽寺は、平らを覆う松本藩の三大寺院の一つです。他の二つは、穂高の万願寺と三郷の平福寺ですよ。
 安楽寺の首座は智順和尚さまで、当時は弟子が7人、下人が3人、門前に23人が暮らしておりました。門前には20棟の宿坊があり、檀家は500軒ほど。
 新仏(あらぼとけ)の新盆(あらぼん)では、盆が始まる前日の七月九日(旧暦)に、家の人が寺に新仏をお迎えに来ます。その時、檀家さんは宿坊に泊り、翌朝の未明に新仏を背負って、自分の村に帰るのです。明科など遠くから歩いてくる方もいました。
 安楽寺は曹洞宗のお寺で、道元禅師の教えを学んでいます。
 例えばね、
 正伝の仏法を拠り所し、
 座禅で心身の安らぎを得、
 行住坐臥に安住し、
 自他の命を大切にし、
 日々の生活を意識して行い、
 互いに生きる喜びを見出す、
というところかしら。わたくしの弧峯院も同じです。
 湯茶を供え、線香をたて、「南無釈迦牟尼仏(なむ・しゃか・むにぶつ)」と唱えます。
 浄土があるとは言っていないので、死後のことはわかりせん。現世が悟りです。仏は今ここにいる自分の中に見出していきましょう、という感じです。
 栄弥さんは出家して智恵という僧名をいただき、安楽寺で六年間の修業を積みました。
 初めは心配しましたが、仏の慈悲のお陰で、また、ご自身の精進のお陰で、無事りっぱな僧侶になりましたね。
 寺の生活も回復に適していたのでしょう。今年(慶応3年・1867年)春からは、岩原弧峰院の住持になりました。嬉しいかぎりです。

 (次回連載386に続く。
 写真は、陶芸家髙野榮太郎作の双六(すごろく)。俳句も榮太郎作で、これがまた味わい深いこと、陶芸並みです。お正月にどうぞ)

連載384。第6章・幕末から維新へ(文久元年・1861年~明治4年・1871年)―①栄弥の寺と、正彦が語る幕末ー1
 (前回、第5章が終わり、今日から第6章です。)


 降り積もる雪に閉ざされたあの日、大八車に乗せた栄弥さんを、岩原の安楽寺に送り届けた文久元年(1861年)二月のあの午後、栄弥さんの父儀十郎さんと兄の八九郎さんとわたくし俊量は、雪雲に覆われた空の下をとぼとぼと里へと下ってまいりました。
 安楽寺のある寺山から続く雪道を、三人は無言で歩きました。飛騨の前山は白く覆われているはずですが、それは降りしきる雪の向こうで、振り向いても何も見えません。
 安楽寺から小田多井までの一里半の道のりで、わたくしの堀金弧峯院が一番初めですからね、弧峯院の前で、わたくしは儀十郎さん九八郎さん親子を見送りました。
 儀十郎さんが、
 「ありがとうございました。お世話になりました」と言って深々を頭をさげた時、蓑(みの)の肩に積もった雪が、目の前にぱらぱらと落ちました。わたくしの涙も落ちそうになりましたっけ。九八郎さんは、
 「これからは、堀金はおらが廻るで、俊量さまのところへも寄らせてもらいますだ。その時、安楽寺の栄弥の様子が知れたら、教えてくだされ」と言いました。
 蓑(みの)には再び雪が積もりはじめ、その雪は直ぐに氷の粒に変わります。堀金から小田多井へと続く白い道を、父と息子の二つの後ろ姿が遠ざかって行きました。その寂しげな背中が、今でも目に焼き付いております。

 (次回連載385に続く。
 写真は、今日の夜。孫4人とそのママたち。あとから孫たちの父さんも来ました。ゲストハウスの居間になるはずの部屋で、にぎやかな晩ご飯)

連載383。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―45
 (前回、栄弥が乗った大八車が動きだすと、末の弟の納次郎とキヨが後を追ってきました。泣きじゃくるキヨは「栄弥さー、行かんでくれー。おら、栄弥さの嫁になるだぁー」と叫んでいました)

 それは、数え七つのキヨさんの、あらんかぎりの真実でした。
 別れを惜しむ少女の、心からの言葉です。その健気(けなげ)な気持ちが、切々と伝わってきます。
 わたくしは、切なさに打たれました。栄弥さんを寺に預けたら、栄弥さんの分まで、キヨさんの成長を見守ろう、と、その時、固く誓ったのでございます。
 納次郎さんとキヨさんは、すすり泣きながら、小走りに大八車を追い駆けてきます。小道から広い農道に出るところで、わたくしは再び振り向いて、二人に向かって叫びました。
 「もう、いいずらい。寒いだで、早よう、お帰り」
 二人の小さな手は、寒さに赤く膨れあがり、その手で、ふたりともが、涙を拭いていました。
 「ほれ、寒いでね、ふたりで、手さ繋ないで、ころばんように、早よ、お帰り」
 七歳のキヨと三歳の納次郎は、わたくしに言われたとおり、手を繋ぎました。しかし、振り向いて帰る気配はありません。その場に立ちつくしたまま、雪の中を遠ざかる栄弥さんの大八車を、二人並んで見送ったのでした。
 大八車を囲んで進む小さな一行は、雪の中を、安楽寺の山を目指して登ります。雪は降る量を増して行きます。小田多井の見送り人から見れば、わたくしたちの一行は、雪の幕の向こう側へと消え行ったと見えたことでしょう。山は白く閉ざされた凍りの世界でした。
 その朝、寺へと出立した数え二十の栄弥さんが、横山の家に戻ることは、二度とありませんでした。

 (次回、連載384に続く。今回で第5章が終わりました。次回からは、第6章・幕末から維新へ、が始まります。
 今日は市長記者会見の日。忙しくてレポートはできませんが、写真だけパチリ)

連載382。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―44
 (前回は、出立前の栄弥が、髷(まげ)を家に向かって放りなげました。別れの悲しい儀式でした)

 さっきまで、のしかかる様にそびえていた常念岳が、雪煙の中に霞み初め、雪雲が里まで降りて来ました。雪が舞い、雪はやがて絶え間なく降りてきて、山も里も白い幕に覆われてゆきます。
 栄弥さんは促されて大八車に横になりました。なみさんが掛け布団で栄弥さんを覆います。布団の上に、見る間に雪が積もっていきました。
 妹たちが駆け寄って大八車を囲み、栄弥さんを覗き込みながら、口々に言いました。
 「兄や、ありがとな」
 「元気だしてくれや」
 「また、きっと帰ってくれ」
 「おらぁ、寂しか。兄いが行くのはイヤじゃ、寂しかぁ」
 弟の寿賀三と納次郎はまだ背が低ので、栄弥さんの顔が見えません。栄弥さんの布団を握りしめていました。
 九八郎さんが車を引き、儀十郎さんが後ろから押し、わたくしは横に立って栄弥さんの手を握ります。
 大八車が静かに動き初めました。
 「兄や、おらも行くー」という子どもの声が聞こえます。
 振り向くと、納次郎さんが車の後を追い駆けてきます。大八車を引いていた九八郎さんが、振り向いて、言いました。
 「納次郎は、栄弥にそっくりさな。おらが初めて手習所へ行った朝も、栄弥はおれの後を追って、兄やー。おらも行くー。とっ言って泣いていたずら」
 納次郎さんと一緒に、キヨさんも、大八車を追ってきました。
 キヨさんは、しゃくりあげながら、何か呟いています。キヨさんと納次郎さんが見送りの一行から一町ほど離れたころ、キヨさんのつぶやく声が聞こえました。
 「えいやさー。行かんでくれー。行かんでくれー。おら、えいやさの嫁になるだぁー」
 微かな声です。栄弥さんには届かない程の、微かな声でした。

 (次回、連載383に続く。
 写真はクリスマスを待つ教会。昨日のミサの前の祭壇)

連載381。小説『山を仰ぐ』第5章、栄弥ー②俊量が語る青年栄弥ー43
 (前回は、出立の栄弥を見送りるために、縁のある人たちが、雪雲の垂れ込める寒い朝に門の前に集まっていました)
 
 兄の八九郎さんが動きだし、儀十郎さんとわたくしが栄弥さんを支えて歩きだそうとした時、栄弥さんがゆっくりと振り向きました。
 昨日切り落としたまげ(髷)を懐から出し、渾身の力を振り絞って家に向かって放り投げたのです。まげはゆっくりと玄関の前に落ちました。
 栄弥さんは、落ちたまげから目をあげ、横山の家を見上げます。無言でしたが、涙が頬を流れていました。
 どのような気持ちでまげを放り投げたかは、ついに聞くことはありませんでした。
 くやしさや未練、悲しみや寂しさが交錯していたのかもしれません。形見として渡したかったのに、渡しそびれて投げいれたのかもしれません。
 ともあれ、それは、別れの儀式でした。切ない別れが、空の果てまで続いている冬の朝でした。
 よろよろと歩く栄弥さんをなみさんが支え、大八車に座らせました。なみさんは栄弥さんの頬を撫でながら言います。
 「栄弥、ごめんな。栄弥、ごめんな。気が付かなんで、ごめんな。
 どんなにえらく(辛く)ても、死んだらいけねえぞ。お前が死んだら、おら、生きていけねからな。約束してくれ、死んではいかんぞ」
 (次回、連載382に続く。
 写真は今日、娘とランチ)



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