連載598。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー②開産社と博覧会ー32

 辰致さまと正彦さんの話は、糸にとって、知らない世界に触れる、それはそれは新鮮な時間です。
 今回は、意外なことに、辰致さまが、糸に
 「糸さんは、どのようにお暮らしですか」と、尋ねてくれました。
 えっ、と思いましたが、でも、嬉しかったですよ。辰致さまが糸の暮らしを聞いてくれるなんて。
 糸は答えました。気のきいたことが言えずに、残念ではありましたが。
 「どのように暮らしているかといえば、変わりなく、つつがなく、まあ、気楽に暮らしているだいね」
 正彦さんが笑いながら、言いました。
 「それは何よりです。去年の六月、東京にいた私は、キヨさんが臥雲籍を離れたと聞き、臥雲さんが心配でしたから、糸さんに助けを求めたい気持ちでした。波多の父に、臥雲さんと糸さんの縁結びを頼んだりして。父からの手紙では、それは不首尾に終わったようですね。早とちりですいませんでした」
 糸も笑いながら答えました。
 「縁結びの提案をしてくれて、正彦さん、ありがとね。糸は、うれしかったじ。でもせ、辰致さまには、あっさり断られただいね。ま、当然だ。しかたないずら」
 糸は、あの時のことを思い出して、また、笑えてきました。
 武居の父上からお話があったった時、お酒の入った糸が、なんだか調子に乗って、糸の気持ちを言ったら、辰致さまが目をまんまるくして驚いていた時のことです。
 辰致さまが、はにかんだように言いました。
 「あの折は、大変失礼しましたが、しかし、あの後、私は、前を向いて進むことができました。糸さんの言葉には心底驚きましたが、私の暗い心に、暖かな火が灯ったようでした。感謝しているのです」
 あら、なんと嬉しい辰致さまのお言葉! 
 糸の心にも、火が灯ったのでございます。

 (次回、連載599に続く。
 写真は、木版画家塩入久さんのフェイスブックより。ホテルブエナビスタのフロントに飾ってあります)

連載595。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー②開産社と博覧会ー29
 (飴市の日に手作りの半てんを持ち、松本の辰致を訪ねた糸は、開産社で偶然武居正彦に会いました)

 糸が十三の時、初めて岩原へ行き、盆の法要の後、山口家の客間で智恵さまと同席した時も、正彦さんが一緒でしたし、次の年、弧峰院に智恵さまをお訪ねした時も、正彦さんが一緒でした。糸は二人の話を、だた聞いていただけですが、それはとても楽しい時間でした。
 展覧場で、機械の実演と説明をした後、辰致さまは言いました。
 「工場へ行きましょうか」
 工場でゆっくり話しましょう、ということですね。正彦さんがいるので。
 三人で開産社の植物試験場を通り抜け、女工場の前を過ぎて、工場へ行くと、中は半年前とはすっかり変わり、雑然としています。
 「もうすぐ、工場が始まるので、準備中です。作りかけの機械もありますし」と言いながら、辰致さまは奥の自室へ正彦さんと糸を案内し、火鉢に炭をいれました。正彦さんが言います。
 「ここで、糸さんに会えて、嬉しいです。九年前の岩原を思い出します。何か、ゆっくり話をしたくなりますね」
 糸は波多から持ってきた笹寿司を開け、正彦さんは飴市で買ったという飴と饅頭を広げました。正彦さんが続けます。
 「まず、お二人が一番気になっていることを、報告しましょうね。
 私は、正月、例年のように岩原の山口家へ挨拶に行き、帰りに堀金の尼寺へ寄ってきました。
 俊量さまにもキヨさんにも会え、お二人がお元気だったので安心しました。
 キヨさんは、去年の六月に臥雲さんの戸籍から離れると、元の松沢姓には戻らず、俊量さまの養子になったそうです。キヨさんは言ってましたよ。
 「俊量さまは岩原という苗字だから、キヨは岩原キヨになっただが、今は、尼の見習いとして玄量と名乗っているから、通称は岩原玄量、だ。どうだ、よい名前ずら。
 タッチさも名は自分で作っただもの、キヨも真似したのせ。
 玄は黒だけど、奥深い、意味深い黒だじ。キヨは、そういう尼さんになりたいのせ。
 そしてできれば、キヨも養子をもらい、その子が岩原なに量という尼になってくれたらいいな、と思っている。この寺の尼の岩原三代になりたいだ」と。

 (次回、連載596に続く。
 写真は、昨日の城東地区ひろばカフェのメニューです。さくらどら焼きもフワフワ、抹茶もフワフワで極上でした。100円なのもすごい。藤本さまほかボランティアの皆さま、ごちそうさまでした)

連載584。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー②開産社と博覧会ー18 
 (キヨとの離縁が決まり、やつれた辰致が、正彦の父に伴われ波多の川澄家に戻ってきました)

 武居美佐雄さんは、父にも母にも私にも酒を注ぎ、最後に辰致さまの盃に徳利を傾けながら、話を続けました。
 「東京の正彦が、手紙でこう言ってきたのせ。
『キヨさんのことで沈んでいる臥雲さんには失礼かもしれませんが、臥雲さんと糸さんはお似合いではないでしょうか。
 お二人の気持ちもありますが、父さんに、二人の仲を取り持ってもらえないでしょうか』とせ。
 この件は、昨日、川澄の東佐さんにも母さまのツキさんにも相談しただよ。そしたらせ、二人とも大賛成だったさ。
 本人たちの気持ちは、まだ聞いてはいないだがな」
 糸は、武居さまの話の意味を聞き取ろうと必死で耳を傾けていた時、びっくりな言葉が飛び込んできて、まことに、びっくりでした。 なんで、また、突然に。それも、こんな時期に、、、、。
 糸は一瞬、怒りにも来た気持ちが湧きましたが、すぐに、悪い話ではない、、、、、と思いました。
 糸に男の兄弟が生まれなかったこともあり、また、正彦さんに洗馬からの嫁取りの話がどんどん進んだこともあり、正彦さんは、糸と結婚できなかったことで、糸の将来を心配していたのかもしれません。正彦さんの気持ちを、ありがたいと思ったことでした。
 父の川澄東左が口を挟みました。
 「さすが正彦君だ。こんな時期に、よう言うてくれたさ。
 わしは、初めっから、そう願っていただもの、ありがたいことせ。
 できれば、臥雲さんが婿に来てくれて、川澄の分家を作ってくれたら、こんなにありがたいことはないだが、、、、。本人たちは、どうだかやぁ」
 本人たち、と言われても、そりゃ、辰致さまが先だいね。辰致さまはどう思うだかやぁ。糸は押し黙っていました。
 
 (次回、連載585に続く。
 今朝は-8℃になった寒い朝、城東地区ひろばの「シネマの会」で『佐賀のがばいばあちゃん』の上映がありました。原作も良かったけれど、映画も良かったです。身につまされる場面も多くて)

連載552。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー17

 正彦さんが、待ってましたとばかりに言いました。
 「この度、私が急ぎ波多へ戻ったのは、もし、臥雲さんに私の志(こころざし)の意図を理解していただけるなら、私が専売特許願いの草稿を書きましょう、と思ってのことです。今日、請願文の概要を打ち合わせできたら、一両日のうちに漢文の草稿を書いてお持ちできます」

 正彦さんの言葉を聞いて、辰致さまのお顔が輝いたように見えました。同席の一同からも、ほ~、という感嘆の声がもれています。
 辰致さまが
 「よろしくお願いします」と頭を下げ、正彦さんが
 「では、食事が終わりしだい、打ち合わせをしましょう」と言うと、お二人は、そそくさと食事を済ませ、私らに食事のお礼と席立ちの詫びをいうと、あっと言う間に土蔵へと立ち去ってしまいました。 
 夜半に正彦さんが三溝の実家に帰り、「専売特許願い」の下書きを持って再度お見えになったのは、二日後のことです。
 あいにく、辰致さまは松本にお出かけで、お留守でした。開産社の開所式が翌三月十五日にあるので、松本まで新発明の機械を運んでいったのです。
 開所式には、筑摩県の永山盛輝権令はじめ、県下の大区長三十名がお揃いになるということです。開産社の前身の勧業社の頃から、社長は筑摩県の三十の大区長が全員就任し、出資もすることになっていたからです。
 そのほかに開産方と呼ばれる関係者が六十七人もいて、民間の市川量造さんや、県の官吏の北原稲雄さんのお名前もありました。
 その開所式の前に、辰致さまはお越しの方々に見てもらうために、実演をしながら機械の説明をするというのです。波多村からの推薦と開産社からの要請があって実現したことでした。

 (次回、連載に続く。
 写真は塩入久さんのフェイスブックより。ブエナビスタは、たぶん?、松本で一番高級なホテルです。ちなみに、うちは、たぶん?、松本で一番安い宿です)

連載520小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー65 
 (二人で過ごした岩原で、辰致はキヨに「子供が楽しみだ」とい言い、キヨは「もし、子供が出来てタッチさがいない日が多いなら、子供は他の親無し子と一緒に尼寺で育てたい」と言いました。)
 
 十日が経って、森の家を離れる時、タッチさは荷車にまだ未完成の臥雲式布織機を乗せた。タッチさは言ったじ。
 「波多では、新発明の私の糸紡械で、綿糸を作る他に、飛び杼を使った私の綿布織機も稼働させる計画があるだ。それで、波多の衆が、布織機も早く見たいというのせ。まだ未完成だが、持って行くべ。
 納次郎にも荷運びを手伝ってもらうから、十日ほど、納次郎も連れて行くわな。キヨ、納次郎の顔が毎日見れなくてもええかや」とさ。
 なんと言うことだ。キヨは、大丈夫だじ。俊量さまや寺の女子供たちと一緒だもの。隣りには青柳先生だって、産婆の奥さんだっているずら。

 十日経って納次郎が戻ってきた時、納次郎も小多田井の実家を素通りして、堀金のキヨの顔を見にきてくれたさ。
 秋風の立つ縁側で、キヨは納次郎をお茶やお菓子でもてなし、波多でのタッチさはどんなんか、興味津々に聞いたのせ。
 納次郎も嬉しそうにいろいろ話してくれたさ。
 「兄やは忙しくしているじ。工場の設計をしている人や、機械を作る大工や、いろいろな人が、兄やに「これはどうしたらいいかや」と聞きにくるだ。
 春と夏に持っていった二台の機械は、一時、河澄家の土蔵に置いているだから、そこが兄やの仕事場兼泊り場だな。
 おらは土蔵のすぐ近くの母屋で寝かせてもらったじ。河澄東左さんの話では、兄やにも母屋で寝るように勧めているだが、お断りなんだそうだ。
 食事は河澄家でいただいていたので、皆さんと親しくなったじ。東左さんは、兄やに『波多に移住してこないか』と言ってくれているだ。兄やはもう、波多には無くてならない人なんだと」

 (次回、連載521に続く。
 先の土曜日の安原地区公民館文化祭とひろば祭りでは、またまた踊りました。写真はアルゴス・ハサピコスと羊飼いのマズルカ。私が踊ったのはエレヴバとリトルマン・イン・ナ・フィックスなので、写真には写っていません。日本舞踊の発表もありました)

連載514小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー59 
 (やつれた姿でやっと帰って来たのに、辰致には、波多でしなければならない仕事が山積していました)

 タッチさは、さらに続けた。
 「だがな、その前に、私は岩原で五日ほど、眠りこけたいだ。私も過労から気鬱になった経験があるでな、分かるだよ、これ以上無理をしたら、壊れてしまう、ということが。まだ眠れるうちに眠らないと、また眠れんようになってしまうでな。
 キヨもそうだじ。今の病いは貴重な経験ずら。もうこれからは、同じ無理を二度としてはならない、と病いが教えてくれただもの。
 キヨと納次郎と一緒に岩原へ帰りたいところだが、今はキヨを連れて帰っても、私はキヨの世話ができないのせ。すまないが、今回は一人で岩原に帰りたいだ。
 キヨのことは、昨夜俊量さまに頼んでみた。
 「キヨも順調に回復してるから大丈夫でしょう」と言ってくださったじ。キヨはどうだか? 大丈夫だか? 
 私が岩原で食べるものは、小多田井に寄って、母さまから氷餅や凍み豆腐をもらってきたから大丈夫だ。
 納次郎、お前は、今までどおり、小多田井の実家で糸集めの手伝いをしてくれ。それで、毎日キヨの顔を見て、キヨに変わったことがあれば、すぐに山を上がって知らせてほしい。それなら、私も安心して眠れるじ」
 キヨに異論はなかったさ。納次郎も同じずら。タッチさには十分に休んでほしかったし、それには一人が一番、ということも分かった。タッチさは、荷車に母さまからもらった食料を載せて、岩原へ上っていったさ。

 (次回、連載515に続く。
 写真1は、数日前の城東地区公民館文化祭で。松本フォークダンスクラブが踊った曲の一つ、名曲「アルゴス・ハサピコス」です。写真2は同じ曲を例会で踊った時のもの。難しいので、どちらにも私はいません)

連載512小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー57
 (機械を持って波多へ行くことになった辰致は、機械を取りに岩原の森の家に戻りましたが、たった3日間のことなので、キヨは寒くて暗い岩原の家には戻らず、尼寺にとどまり、3日後、辰致は機械を持って波多へ行きました)

 納次郎は小田多井の実家に泊まりながら、綿の配達と綿糸の収集の仕事を手伝っていた。少し前までやっていた仕事で、タッチさの少年の頃の仕事でもあった。 
 配達の担当が北回りの道だったので、納次郎は、毎日堀金の尼寺に顔を見せてくれたじ。納次郎は嬉しそうに言っていたさ。
 「キヨに何か異変があったら、すぐにタッチさに知らせることになっているんだ」と。
 なんだか可笑しくて、キヨは久しぶりに笑った。キヨは、徐々に快方に向かっていたさ。
 三月十五日に開産社の開所式を終えたタッチさは、十六日の夜には帰って来て、半月振りに尼寺に顔を見せた。
 その夜は納次郎のいる小多田井の実家に泊まると言っていたが、タッチさはげっそりとやつれ、ひどく疲れているようだった。
 今回だって、五里の道を急ぎに急いで帰ったのだろうから、それも当然かもしれないが、しかし、波多での半月がどんなに忙しいものであったかを、次の日、キヨと納次郎はタッチさから聞いた。
 波多の有力者の家で機械を動かし、綿糸作りの実演をしながら説明をし、打ち合わせや寄り合いをかさね、挙句は、松本の開産社まで、機械を運んだということだったさ。

 (次回、連載513に続く。
 昨日の土曜日は、城東公民館の文化祭でした。子供たちの一輪車パレードが超ステキ、私たち松本フォークダンスクラブも、4曲を踊りました)

連載503小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー48 

 明治七年は静かに暮れて、明治八年がやって来た。タッチさは三十四歳に、納次郎は十七歳に、キヨは二十一になった。
 雪に包まれた森の家の囲炉裏には、天井から自在鉤が下がっていて、たいていは鍋がつるしてあった。寒くなって火が必要になる季節は、囲炉裏に終日薪(たきぎ)をくべて暖を取り、煮物も、炊飯も、湯沸かしも囲炉裏の上で済ませた。
 タッチさと納次郎は、囲炉裏を囲み、木っ端を刻んだり、磨いたりしていた。 
 納次郎が、「兄や、このこんまいのは、機械のどの部分になるだい」と問えば、タッチさは、図面を指して、「ここだいね」と答えている。納次郎は、さすがタッチさの弟だけあって、機械にも興味を示していたさ。
 キヨも昼間は囲炉裏の端に布団をしいて横になっていた。とろとろ眠りながら、タッチさや納次郎の姿を眺めたり、囲炉裏の上に立ち昇る湯気を見たりしていた。
 少し元気になると、薪をくべる係がキヨに回ってきたので、キヨは、囲炉裏の真ん中で燃える赤い火を見ていることが多くなった。燃えて揺らめく炎は、ほんに、きれいだったな。
 タッチさが、時々、
 「ほれ、キヨ、火が弱くなっているぞ、どうだ、薪をくべられるか?」と声を掛けてくれた。
 キヨは、いつも「大丈夫だ」と言って、のろのろではあるが、薪をくべた。自分の仕事があるのは自分の居場所があるみたいで、うれしかったな。
 納次郎が臥雲の戸籍に養子として入籍したのは、正月も終わった一月二十日のことだった。
 タッチさはまず、自分と納次郎の実家の横山家に手紙を書き、事の次第と願いを知らせただ。その後、小多田井へ出向き、正装で正座をして頭を下げた。必死の思いだったずら。
 家を継いだ兄やの九八郎も、タッチの母さまのなみさんも、快諾してくれ、タッチさと納次郎とキヨは晴れて一つの家族となったのせ。
 それまでも三人は、弧峰院跡の本堂で川の字になって寝ていたから、親子みたいだったけれど、籍が同じになってからは、これでほんとの親子じゃ、なんで言って、そのまんまだった。
 布団が三枚から二枚になったけど、三本川には変わりはないずら。別に問題はなっかただもの。

 (次回)、連載504に続く。
 写真は、一昨日の馬籠行きの集合写真です。藤村記念館前で。この夏の記念に)

連載491小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー36
 (松本城の解体を防ぐための博覧会へ行き、キヨは天守に登ってその眺めに目がくらみました)

 博覧会の会場はごった返し、筑摩県下の古物や、東京博覧会で出された、珍しい陶器や美術品や武具甲冑や、クジラの骨などが並んでいた。
 今までは、城や寺や神社や、名家の奥に大事に隠されていて、限られた身分の人しか見られなかった秘物を、こうして、広く民衆に見てもらうことが、文明開化の人智を開くことになるらしかった。
 納次郎は興味津々で喜々としていたが、タッチさはその年の六月にあった「ウイーン万国博覧会」のことを、正彦さんから送ってもらった「信飛新聞」で知っていたから、物足りなかったかずら。
 「いずれ、日本でも、万国博のような趣旨での博覧会ができるだろう。今はまだ、初めの初め、去年(明治5年)の三月に東京の湯島聖堂で、日本で初めての博覧会が開催されたばかりだもの。あとは京都くらいかな。こんな小さな松本みたいな町で、お城を使って博覧会ができただけでも、たいしたものさ」と言っていたさ。
 タッチさは、自分の作った機械を展示し、皆に見てもらう日が来ることを思い描いていたのかもしれない。
 いや、タッチさだけではない。父さまの儀十郎さんだって、その日のために、今回の切符を用意してくれたのかもしれない。
 まだ、だれも知らない、宝石のようなタッチさの技術を、どのようにして世の人に知ってもらうか。今の考えどころはそこだと、キヨも思っていたさ。

 (次回)、連載492に続く。
 写真は、木版画家、塩入久さんのフェイスブックより。『夏雲湧くころ』。見えている山は、北アルプス(西山)の反対側(東山)の美ヶ原です。

連載476。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー21 
 (キヨと納次郎を大妻に置き、梓川を渡って波多へ向かった辰致は、昼には帰ると言っていたのに、午後になっても戻らず、キヨは心配でなりませんでした。語りはキヨ)

 陽もとっぷりと暮れた頃、晩飯の準備が整い皆が待っていたところに、タッチさが息せき切って帰って来た。
 「遅くなってすみません。ほんに、すみませんでした。話しが長引いて、こんな時刻になってしまって」
 キヨはなぜかタッチさを見れなんだが、その声を聞いて心底安心したさ。張りつめていた気持ちが解けて、涙が出そうだった。
 ほんとは一番に駆け寄って、タッチさ、お帰り! と飛びつきたいほどだったのに、なぜか、キヨはうつむいたままタッチさから目を逸(そ)らせていたのせ。 
 母さんが言った。
 「さあさ、晩飯にしましょ。タッチさも座っておくれ。飯と汁もよそいまっしょ」  
 キヨは、黙々と汁をよそい、兄やの嫁さんが飯をよそった。父さんはタッチさに酒を勧め、納次郎と兄たちは腹が減ったとばかりに食べ始めた。 
 父さんが言った。
 「遅くなったでね、三人とも、もう一晩泊まって行きや」

 (次回、連載477に続く。
 写真は、今日の城東地区ひろば『ロマン茶房』の、今月のメニュー。杏仁豆腐は見た目も美しく涼し気で、味も超美味でした。100円で、こんなに豊かな時間が味わえます。スイーツボランティアの皆様、ごちそうさまでした。

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