連載319。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥―25
 (前回、手習所へ通った栄弥は、その行き帰りに大工たちの仕事場にも通っていました)

 大工の仕事が終わるまで見ているので、帰りは夕暮れになるという毎日。家の人も仕方なく黙認です。栄弥さんは、無口で引っ込み思案なくせに頑固でしたから、これだけは譲らなかったのです。
 大工の仕事は、材木をくり抜いて穴を空け、あるいは掘ったり削ったりして凹凸(おうとつ)作り、凹と凸とを組み合わせて、がっしりした揺るぎない建造物を作ってゆきます。
 それは、まことに、不思議な光景でした。細かで不思議な作業の後で、目的に叶う構造物が目の前で立ち上がっていくのは、なんと心を動かされることだったでしょう。
 この魔法のような仕事は、どこにも書いてありません。木の組み合わせの魔法が、全て大工の頭の中に入っているのです。
 棟梁は、細部にいたるまで、すべてのことを暗記していて、それを寸分違わず創り出し、形にしていくのでした。頭の中の図面どうりに黙々と手を動かし、やがて形ある物が出現します。
 現場には大工の見習いもいました。師匠の大工は、技術の全てを口伝えで教え、仕事を進めていくのです。
 「ここは、こうしろ。あそこは、ああしろ」という細かで単純な指示を出し、時に厳しい叱責もあり、一つ一つの単純な行程を正確にできるように訓練します。
 そして、ある日、それが立派な構造物になった時に、見習いの大工は、自分がやってきたことが何であったのかを知るのです。口伝えの教えは、真似の実践によって可能になるのでした。


 (次回、連載320に続く。
 写真は昨日の市民タイムス。火曜日の市長記者会見の記事の二つめと三つ目です)


連載318。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥―24
 (前回は、手習所で栄弥は論語の「士はもって弘毅ならざるべからず」などを習い、優秀だったので、たった三年で卒業になりました)

 栄弥さんが手習所へ通った時期、実は、その行き帰りに、手習所のすぐ近くの八幡神社にも通っていました。
 栄弥さんが松田斐宣先生の所へ行き始めた嘉永三年(1850年)夏、この地方は宝暦七年の梓川大満水以来の、百年振りの大風水害に見舞われました。梓川が溢れ、熊倉橋が落ち、田地一万石が流され、痛んだ建物も沢山でました。
 平の各地で、建物の修復や田畑や水路の整備が行われ、小田多井の八幡神社には、百年前に穂高神社から払い下げてもらった本殿の修復するために、富山、岐阜、高山から宮大工が来ていました。ついでに、小田多井のあちこちの宮や寺の修復もしていました。
 宮大工たちは、八幡神社の隣りの丸山さんの館に寝泊まりしていて、八幡神社と一続きの丸山家の庭も、大工の仕事場でした。
 小田多井村の大工は中村の人で、その人も来ていました。この大工は、栄弥さんの横山家が綿糸作りの増産に迫られる中、次々に糸車を作ってくれた人です。
 手習所は朝五つの辰の刻(朝8時頃)に始まり、昼八つの未の刻(午後2時頃)には終わります。辰の刻の半時(およそ1時間)ほど前に、朝、宮の修復現場に寄ると、大工たちが輪になって打ち合わせをしていました。
 大工たちの輪にそっと近づき、栄弥さんは、聞きなれない大工言葉に耳を傾けます。注意深く耳を澄ますと、その日何をするのかを聞きとることが出来ました。
 その作業を想像し、午後に手習所が終わると、一目散にお宮の境内に駆け付けるのです。宮大工の仕事を飽かず眺め、自分の想像と違う事に驚いたり、納得したりの毎日でした。

 (次回、連載319に続く。
 昨日の市長記者会見が、今日の市民タイムスで3つの記事になっていました。写真はその一つ目の一面トップです。昨日私が写真ですませたことが、丁寧に報告されています)

市長記者会見の日。
 ①今日のコロナ新規感染者は129人(うち20%が60歳以上)、医療機関で2件の集団感染者がありました。いずれも軽症か無症状です。7月25日からのひと月で13人が亡くなられました。哀悼の意を表しお悔やみ申し上げます。
 直近一週間では2252人、前週より4%の減で、減少傾向にありピークを過ぎつつあるのではと思われます。
 病床使用率は79%で高い水準ですが、市立病院は今日4人が退院し、落ち着きつつあります。外来も、102人をピークに30人台に減りました。
 アルピコ、合同庁舎のワクチン会場には空きがあります。
 岸田首相の発言、厚労省の通達により、発生届の対象を限定する方向です。松本市も県と歩調を合わせて参ります。
 ②保育園と認定こども園の入園在園用件を次の4点で見直し緩和します(写真参照)。子供
を産み育てる環境をきめ細かく、できる限り整えて行きたいと思っています。それぞれの家庭での個別な、育児の多様なニーズに応えることが重要です。
 ③松本市の自転車交通事故は県の1.66倍です。10歳〜19歳が47%で、通学時の高校生に集中しています。
 これまで自転車のヘルメット着用は12歳以下の努力義務でしたが、この度全ての人の努力義務になりました。
 そこで、松本市はまず試験的に、松商学園の自転車通学の高校生700人にヘルメット購入代の半額程度の補助として、一人当たり3000円、240万を9月議会に計上します。来年度から、全ての高校生に補助が出来れば、と思っています。 
 自転車事故をなくす努力として、道路に描く矢羽(ヤハネ)マークの整備を進めます。1キロ当り7800万と、お金のかかることですが、位置と方向を指し示して自転車を誘導し、車には注意を促す効果があるので、令和8年度を目処に40キロを延長し整備したいです。 
 ④地方創生臨時交付金23億円のうち、18億円を9月の議会に計上します。
 水道料金、給食材料費、農家、園芸農家肥料代、公衆浴場燃料費への補助と、マイナカードなどの地域活性化予算です。
 記者の質問に答えて
 ⑤昨日のOMFのコンサートは感銘を受けました。ストラビンスキーの春の祭典という曲に引き込まれ、SKOの演奏から目が離せませんでした。30周年記念の意義深いフェスティバルになりました。
 ⑥自転車ヘルメットの着用は、全市民一人一人の身体に染み込むまで周知をしたいです。自転車先進都市を掲げているので、全国を上回る取り組みが必要です。
 ⑦松本駅お城口バスターミナルの発着を増やすなど、駅前ハブ機能強化へ向けて、市民の皆さんに良いなあと思ってもらえる案をまとめて行きたいです。
 ⑧マイナカードの一番の利点は、給付金などの迅速な支給と事務経費がかからないことだと思います。
 (写真2は、夕方のNHKニュースより



連載317。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥―23 
 (前回は、手習所へ行き始めた栄弥を妹たちが追って泣いた話しと、先生が教えてくれたことでした)

 『論語』もありました。栄弥さんが家に帰ってから珍しく、なみさんにこう言ったことがあったそうです。
 「今日習ったのは、こんなんだじ。曾子(そうし)曰く、
 『士はもって弘毅(こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁を以て己が任となす。また重からずや。』」。
 なみさんが「それは、どんな意味だいね」と問うと、栄弥さんは嬉しそうに答えました。
 「おらも、今日、教わったのせ。あのな、仁道の実現を志す士は、度量が広く、意志が強固でなければならん。その任務は重くて果てしがないのだから、という意味だいね」
 こういう言葉に心を引かれていた栄弥さんは、その心の種がすでに少年の頃からあったということでしょうね。
 先生は、知識よりも、しっかりした大人になるための力を重んじ、躾方の教えは時と所を選ばず、教えるによい場面に出くわせばその都度、この場合はどうしたら良いか、を教えてくれました。厳しかったですね。
 知識の教えも、真似をし、反復し、暗記することで、そういうことが未知の難題を解く力になることを教えました。
 栄弥さんは熱心に勉強しました。兄やの九八郎さんより一年遅く行き始めたのに、卒業したのは一年早い十二歳の時でしたから、学びは速かったのですね。松田菱宣先生が
 「栄弥はどんどん覚える」と感心していたと言いますから。
 それで、村の手習所は三年で卒業でした。栄弥さんは、早く、家の手伝いをしたかったのです。

 (次回、連載318に続く)

連載316。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥―22 
 (前回栄弥は、兄の外回りの仕事について廻っていましたが、ついに手習所へいくことになりました)

 梅と桜が同時に咲き始めた頃でした。常念岳はまだ雪を被ったまま、その日も白い塊が天を突くようにそびえています。
 こぶしの花が開く横山家の門の前で、栄弥さんは西を振り向き、山を仰ぎました。さあ、これから、手習所へ通うのです。闘志は隠していましたが、道場破りにいくような意気込みでした。
 九八郎さんが使った天神机を担いで、栄弥さんが野の道を南に歩く朝、まだ小さな妹ふたりが、
「おらも行くー」と言いながら、栄弥さんの後を追ったそうです。わらぞうりを引っ掛けた小さな足でつまずきながらね。栄弥さんが兄やの後を追ったのと同じで、妹たちも栄弥兄やが大好きでした。
 妹たちにとって、上の八九郎兄は父さんの代理みたいで怖かったけれど、栄弥さんは優しかったですからね。栄弥さんは口べただから優しい言葉は言えないけれど、女の子の気持ちをくんで、仕草が優しかったですね。
 嘉永三年(1850年)のこの時、手習所は二十二年目を迎え、松田斐宣師匠は四十九歳でした。
 先生は『仮名いろは』や『村尽くし』や『国尽くし』の手本を習字で書き、これを読ませ、書かせ、暗誦させ、地理や歴史や作文の基本を教えました。
 読み方では、基礎になる『庭訓往来(ていきんおうらい・初級の教科書)』や『百姓往来』の他に、職人の子供たちのための『番匠(ばんしょう・大工)往来』もあり、算盤(そろばん)の他に算術も教えてくれました。
 
 (次回、連載317に続く。
 写真は今年の夏、ハワイで)

連載315。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥―21 
 (前回横山家は、近所の農家に糸紡ぎを依頼するようになり、儀十郎が、次に九八郎が外回りの仕事をしました)
 
 外回りの仕事を開拓した頃の父の儀十郎さんは、綿花を背中にしょって近所の家に届け、紡いでもらった木綿糸を大風呂敷に包み、背中に括りつけて引き取ってくるという毎日でした。
 九八郎さんの頃は、お願いする量が多くなり、遠くの村までいくために、荷物の運搬は大八車を使ったので、栄弥さんは兄やの引く大八車に夢中になりました。
 栄弥さんは数えの八歳で、手習所へ上がる年齢でしたが、それを渋って、兄やの後を付いて回っていたのです。
 登りの道では、八九郎さんの引く大八車を後ろから押して兄やを助け、下りの道では大八車に飛び乗りご満悦でした。栄弥さんは、クルクル回る車輪の輪を飽かず眺めていたそうです。大八車の上で、
 「みやましかぁ(最高にきれいだなぁ)。おらぁ、車輪が好きだ」と漏らすことがあったと、九八郎さんから聞いたことがあります。
 手習所の松田斐宣先生は、兄の九八郎さんの卒業と入れ替わりに、栄弥さんが入学すると待っていたのに、ちっともこないので、横山家に出向いて、栄弥さんを説得することがありました。
 「ほれ、栄弥はいるかい。栄弥よ、もう八つずら、手習所へ来いや。天神机は兄さのがあるじゃろ、それ担いで、そろばん持って、はよ、来いや」
 でも、栄弥さんは、
 「だって、せっかく、兄やが家にいるようになったのに、、、」と乗り気ではありません。家の人にも説得され、兄やの通った手習所へ行くようになったのは、一年後のことで、栄弥さんは数え九でした。妹が二人生まれていました。

 (次回、連載316に続く。
 写真は、水曜日の市民タイムスです。火曜日の記者会見の記事の2つ目と3つ目。
 昨日木曜日のNHKのニュースでは、火曜日の記者会見で臥雲さんが話している映像で、字幕はその内容の「コロナのリスクが抑えられることが必要で、松本に来れば安心して長期的に滞在し楽しめるという事を、大勢の方々に知ってもらう努力をしたい」との言葉を伝えていました)


連載314。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥―20 
 (前回は、少年にさしかかる元気いっぱいの栄弥。父と母の仕事を見るのが大好きでしたが、もっと楽に仕事ができないかと、考えはじめていたようです)
 
 栄弥さんが七つの頃、横山家は、綿打ちと糸紡ぎを、近くの農家に依頼をするようになっていました。足袋底の注文が増え、横山家だけでは糸が賄えなくなったので、近くの家の作間仕事や夜なべ仕事にと、お願いしたのです。
 始めは儀十郎さんが、綿花を農家の軒先に置いて廻りました。農家の男衆が綿打ちをして綿(わた)を作り、しの綿を女衆が糸に紡いでくれます。儀十郎さんが、新な綿花を持って伺い、出来上がった糸を引き取ってくるのでした。
 長男の九八郎さんは、八つから十三まで寺子屋へ通いました。五年間の勉強を終えると、当然のことながら、家業の手伝いをして、儀十郎さんとなみさんを助けました。
 寺子屋の松田斐宣先生は、手習いに「十義の書」も使っていたので、九八郎さんは、長男としての自覚を培(つち)かっていきましたよ。まじめな生徒でしたから。
 「十義」は儒教の教えで、父の慈、子の孝、兄の良、弟の弟(てい・年長者に従う)、夫の義、婦の聴(人の言葉を聞き入れる)、長の恵、幼の順、君の仁、臣の忠、を言いますね。
 これでまあ良いとは思いますけれど「これでなきゃいかん」としてはいけませんよ。なから(半分)くらいはこれで良しとして、でも、例外はいろいろありますから、例外の理由もしっかり考えて、認めてゆかなければね。
 九八郎さんは、父の儀十郎さんが開拓した、外回りの仕事を引き継いで担いました。子の孝、兄の良、長の恵、を果たそうと、頑張っていたのではないでしょうか。


 (次回、連載315に続く。
 写真は、昨日アップを忘れて、しまった!とガッカリしたもの。
 一昨日の市長記者会見が、昨日の新聞で3つの記事になっていた一つ目です。8月24日水曜日市民タイムス1面トップ)

連載313。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥―19 
 (前回は、幼年期の栄弥のこと。両親の仕事場に入り浸り遊んでいました)

 なみさんが、こんなことを言っていました。
 「昼の働き手が皆帰ってしまう夜にせ、納期に間に合わせるために、親が二人で仕事をしているのを、栄弥は飽きずに見ているだ。
 儀十郎さが、綿(わた)打ちで弓を振動させると綿(わた)の繊維が飛んでいくずら。その綿花の一筋を目で追い、夢見るよにうっとりしていたですよ。
 綿(わた)の繊維が飛んで出来たふわふわの綿の一山を抱え、もう一度綿打ちをする父さんの元に運ぶ仕事を、勇んで手伝ったりもしていたですよ。
 丸めた篠綿(しのわた)をわたしが摘まんで引っ張ると、つぎつぎと繰り出して、長く糸になる木綿糸の不思議に見とれていることも、しばしばだっだですね」と。
 庭のチャボの世話も栄弥さんの仕事でした。水や餌をやったり、チャボの卵を集めたり。兄やの竹馬に乗ることも上手になりました。独楽(こま)回しが好きで、いつまでもやっていたそうですから、栄弥さんは廻るものが好きだったのでしょうか。
 兄やのお下がりの大きな着物から、細い手足がひょろりと出、いがぐり頭は、お坊さんになった今の智恵さまの坊主頭と同じ形です。
 わたくしが、栄弥さんの後に生まれた女の子の子守などで、横山家を訪ねる折に、栄弥さんに、「ととさ(父さん)とかかさ(母さん)は、どうだえ」と聞くと、
 「ととさも、かかさもずく出しとるじ。でもトントン打ちも、糸引きも、大変だで、もうらしいか(かわいそう)」という返事がありました。
 あの頃、やっと少年の仲間入りをしようかという栄弥さんは、父と母の仕事を、もっと容易にはできないか、と思っていたのです。もっと小さな力でもっと便利に早く出来る方法はないか、と。栄弥さんの少年時代は、そのことで頭がいっぱいだったかもしれません。

 (次回、連載314に続く。
 写真は、5年前の町会カフェ・メニュー、50円)

市長記者会見の日。
 ①3年ぶりにセイジ・オザワ松本フェスティバルが開幕しました。一昨日、歓迎パレードと松本城合同演奏会があり、メインのオペラ「フィガロの結婚」の一回目が上演されました。
 今日1時過ぎ、キッセイで小澤総監督と面会し、大盛況で30周年の開幕が出来たこと、フィガロの結婚の迫力ある演奏やアリアの感想など述べさせていただきました。小澤さんは表情豊かで、去年よりもお元気そうでした。
 ②松本の主な行楽地は、コロナ前程ではありませんが、松本城で9割、美術館で7割、上高地で8割の回復になっています。
 空港では神戸線が複便化し、コロナ前の24%増という好調な回復、タウンスニーカーはまだまだです。
 ③今日のコロナ新規感染者は377人、3人が中等症、他は軽症か無症状で、一件の集団感染がありました。
 松本市の病床使用率は74%、大半は80代90代の入院で、高齢者施設での感染が数倍になっていることから、高齢者の命と健康を守ることが焦点です。免疫力をつけるためにワクチンの接種を繰り返しお願いします。アルピコや合同庁舎で接種できます。
 記者の質問に答えて
 ④波田駅前の市立病院の設計の応募が8件あり、最終審査が終わりました。
 採用された構想は、5階建てで、全体が井形をしているということです。井形が一番合理的で、3階に管理部門が集約されています。
 これから、基本構想を策定し、来年度以降に基本計画を策定することになります。西部地域の拠点としての街作りを、地元の皆様とともに進めて行きたいと願っています。


連載312。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥―18
 (前回は、小田多井村の手習所のお話し。今日の語りも俊量です)

 さて、話は戻って、天保十五年、梅と桜が同時にほころび始めた春の始め、数え八つになった兄やの九八郎さんは、この手習所へ通い始めました。その日のために作ってもらった天神机を抱えて出かける初めての朝、数え三つの栄弥さんは、
「おらも行くー」と言って、泣きながら、兄やの後を追ったのだと、なみさんが言っていました。栄弥さんは兄やが大好きでしたからね。横山家の門の前に立つこぶしの樹に、純白の花が大きく開いて、その朝、泣いて兄やの後を追う栄弥さんを見守っていたのだと。
 この頃から、横山家では、村の衆が十人ほど、綿仕事を手伝っていました。手間賃が払えるようになり、敷地内に建物を建て、仕事を広げていったのでした。
 仕事はまず、買って来た乾燥綿花の柄(がら)をはずし、綿ろくろ(手廻し機)にかけて綿の実を取り除きます。次に、弓を打って綿花をほぐし、綿(わた)から糸を引き出したら糸車を回して糸を紡ぎます。その糸で高機(たかはた)を操作して木綿布を織り、重ねた布を手刺で足袋底を作るのでした。
 なみさんの人柄もあって、屋敷内は活気がありましたね。儀十郎さんも威張る人ではないし、仕事を教え、改良し、良い物をつくりたいと、皆で励んでいました。
 数え四つ、五つの栄弥さんは、仕事場にいるのが好きでした。特に、クルクルと廻る綿ろくろや糸車がお気に入りで、飽かずに眺めていました。
 綿ろくろに綿花をはさみ、押し出して実を除くその仕事を、喜々としてやっていました。まだ小さいのにね。手先の器用な子でした。人の手や道具や機械が動いて、何かが出来て来る、という行程が好きだったようです。

 (次回、連載313に続く。
 写真は、陶芸家髙野榮太郎作品集『ウクライナに花を』より)

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