2024/07/24
7月21日の臥雲さんの会は200人くらいの参加で、当選がなかなか決まらなかった3月の開票日の夜のストレスを、共に越えてきた者同志、選挙後初の再会を喜び合いました。
第1部は、プロレスのリングに見立てた中央の台の上で、農業者や、子育てママや、中学生や小学生や、演劇者や、移住者や、議員さんなどの挑戦者が質問パンチを打ち、臥雲さんがそれに応戦、観客は一周ぐるり360度の席から観戦しました。
小学生から「臥雲市長の理想の教育は」と問われて、臥雲さんは
「やりたい事を見つけられた人は幸せだと思うので、教育とは、やりたいことを見つけられるサポートをする事だと思っています。
見つけたら、どのようにして挑戦してゆくか、も学べられるように」と言っていました。
市政の進捗具合も、月毎にしっかり聞きました。
第2部の立食会は、選挙戦を共にした支持者の同窓会のようで、臥雲さんも沢山あるテーブルを回りながら、白熱の議論?。
写真1は、7月22日の市民タイムズ3面。記事に概要とポイントが書いてあります。
写真2は、アントニオ猪木のつもりの臥雲さん。
写真3と4は挑戦者。
写真5はパーティーの初めの相澤病院相澤孝夫先生の応援メッセージ。
写真6はテーブル白熱討議(?)、
写真7でスーツの裾を引っ張られているのは、「早く、次のテーブルへ移動して〜〜〜❢」という意味。
写真8は、遅れて入手した写真ですが、臥雲さんの後ろのおヒゲの男性は「市長選開票日の夜、結果が分かるまでの時間が辛くて、そのストレスでタバコを吸い続けた結果、あの夜以来、タバコが一本も吸えなくなってしまった」そうです。
第1部は、プロレスのリングに見立てた中央の台の上で、農業者や、子育てママや、中学生や小学生や、演劇者や、移住者や、議員さんなどの挑戦者が質問パンチを打ち、臥雲さんがそれに応戦、観客は一周ぐるり360度の席から観戦しました。
小学生から「臥雲市長の理想の教育は」と問われて、臥雲さんは
「やりたい事を見つけられた人は幸せだと思うので、教育とは、やりたいことを見つけられるサポートをする事だと思っています。
見つけたら、どのようにして挑戦してゆくか、も学べられるように」と言っていました。
市政の進捗具合も、月毎にしっかり聞きました。
第2部の立食会は、選挙戦を共にした支持者の同窓会のようで、臥雲さんも沢山あるテーブルを回りながら、白熱の議論?。
写真1は、7月22日の市民タイムズ3面。記事に概要とポイントが書いてあります。
写真2は、アントニオ猪木のつもりの臥雲さん。
写真3と4は挑戦者。
写真5はパーティーの初めの相澤病院相澤孝夫先生の応援メッセージ。
写真6はテーブル白熱討議(?)、
写真7でスーツの裾を引っ張られているのは、「早く、次のテーブルへ移動して〜〜〜❢」という意味。
写真8は、遅れて入手した写真ですが、臥雲さんの後ろのおヒゲの男性は「市長選開票日の夜、結果が分かるまでの時間が辛くて、そのストレスでタバコを吸い続けた結果、あの夜以来、タバコが一本も吸えなくなってしまった」そうです。
2024/07/22
連載479。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー24
(3人は岩原への帰路につき、気持ちの沈んでいるキヨを慰めるために、辰致は波多での出来事をいろいろ話ました。語りはキヨ)
しかし、キヨはまだ黙って聞いていただけだったから、タッチさは、また一人で話し始めたさ。
「きのう長居をした上波多の河澄東左さんの家に、糸さんがいたじ。 キヨも知っているずら。
糸さんは正彦さんと一緒に、安楽寺の私を訪ねてくれたこともあったし、山の神社の祭りの日に、昼の宴を共にしたこともあった。キヨも一緒だったずら。キヨと糸さんは同じ歳だと、糸さんが言っていたじ。
私が『今は、キヨも岩原の寺跡の家に暮らしています』と言ったら、糸さんは
『まあ、そうですか。そうお伺いして、あの日の、キヨさんの涙の訳がわかりした』」と言ったのせ。
私は思わず
『えっ、キヨの涙ですって?』と言ってしまった。驚いて、慌てふためいたのせ。
糸さんはこう説明してくれただ。
『慶応二年、私が十四の時のこと、安楽寺の盆の法事の前に、智順和尚さまが重大発表をしたことがありましたでしょう。ほら、智恵さまが次の春より弧峰院の住持になる、という発表ですよ。
あの時、安楽寺の立派な庫裏で、法事の膳の支度をする智恵さまと俊量さまとキヨさんを見ました。
智恵さまがそばを打ち、俊量さまがそばを切り、キヨさんがそれを湯の近くへ運んでいました。三人の連携の動きあまりにきれいだったので、ほれぼれと眺めていましたっけ。
そのことがあったので、その後すぐに法要のために本堂に座った時、同じ列の隣に座っていたキヨさんと俊量さまが、とても気になっていたのです。
そうしたらね、大和尚の智順さまが智恵を弧峰院の住持にする、と言われた時、キヨさんが一瞬驚いて呼吸を止め、涙を流されたのです。
隣りに座っていた俊量さまは、膝におかれたキヨさんの手の上に、ご自分の手を優しく重ねておいででした』とね。糸さんは、私にそう話してくれたのせ」
(次回、連載480に続く。
添付の目印写真は、昨日の臥雲さんの市政報告会で。今日は本文が長いので、写真の説明は次回(明日または明後日)にします)
(3人は岩原への帰路につき、気持ちの沈んでいるキヨを慰めるために、辰致は波多での出来事をいろいろ話ました。語りはキヨ)
しかし、キヨはまだ黙って聞いていただけだったから、タッチさは、また一人で話し始めたさ。
「きのう長居をした上波多の河澄東左さんの家に、糸さんがいたじ。 キヨも知っているずら。
糸さんは正彦さんと一緒に、安楽寺の私を訪ねてくれたこともあったし、山の神社の祭りの日に、昼の宴を共にしたこともあった。キヨも一緒だったずら。キヨと糸さんは同じ歳だと、糸さんが言っていたじ。
私が『今は、キヨも岩原の寺跡の家に暮らしています』と言ったら、糸さんは
『まあ、そうですか。そうお伺いして、あの日の、キヨさんの涙の訳がわかりした』」と言ったのせ。
私は思わず
『えっ、キヨの涙ですって?』と言ってしまった。驚いて、慌てふためいたのせ。
糸さんはこう説明してくれただ。
『慶応二年、私が十四の時のこと、安楽寺の盆の法事の前に、智順和尚さまが重大発表をしたことがありましたでしょう。ほら、智恵さまが次の春より弧峰院の住持になる、という発表ですよ。
あの時、安楽寺の立派な庫裏で、法事の膳の支度をする智恵さまと俊量さまとキヨさんを見ました。
智恵さまがそばを打ち、俊量さまがそばを切り、キヨさんがそれを湯の近くへ運んでいました。三人の連携の動きあまりにきれいだったので、ほれぼれと眺めていましたっけ。
そのことがあったので、その後すぐに法要のために本堂に座った時、同じ列の隣に座っていたキヨさんと俊量さまが、とても気になっていたのです。
そうしたらね、大和尚の智順さまが智恵を弧峰院の住持にする、と言われた時、キヨさんが一瞬驚いて呼吸を止め、涙を流されたのです。
隣りに座っていた俊量さまは、膝におかれたキヨさんの手の上に、ご自分の手を優しく重ねておいででした』とね。糸さんは、私にそう話してくれたのせ」
(次回、連載480に続く。
添付の目印写真は、昨日の臥雲さんの市政報告会で。今日は本文が長いので、写真の説明は次回(明日または明後日)にします)
連載383。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―45
(前回、栄弥が乗った大八車が動きだすと、末の弟の納次郎とキヨが後を追ってきました。泣きじゃくるキヨは「栄弥さー、行かんでくれー。おら、栄弥さの嫁になるだぁー」と叫んでいました)
それは、数え七つのキヨさんの、あらんかぎりの真実でした。
別れを惜しむ少女の、心からの言葉です。その健気(けなげ)な気持ちが、切々と伝わってきます。
わたくしは、切なさに打たれました。栄弥さんを寺に預けたら、栄弥さんの分まで、キヨさんの成長を見守ろう、と、その時、固く誓ったのでございます。
納次郎さんとキヨさんは、すすり泣きながら、小走りに大八車を追い駆けてきます。小道から広い農道に出るところで、わたくしは再び振り向いて、二人に向かって叫びました。
「もう、いいずらい。寒いだで、早よう、お帰り」
二人の小さな手は、寒さに赤く膨れあがり、その手で、ふたりともが、涙を拭いていました。
「ほれ、寒いでね、ふたりで、手さ繋ないで、ころばんように、早よ、お帰り」
七歳のキヨと三歳の納次郎は、わたくしに言われたとおり、手を繋ぎました。しかし、振り向いて帰る気配はありません。その場に立ちつくしたまま、雪の中を遠ざかる栄弥さんの大八車を、二人並んで見送ったのでした。
大八車を囲んで進む小さな一行は、雪の中を、安楽寺の山を目指して登ります。雪は降る量を増して行きます。小田多井の見送り人から見れば、わたくしたちの一行は、雪の幕の向こう側へと消え行ったと見えたことでしょう。山は白く閉ざされた凍りの世界でした。
その朝、寺へと出立した数え二十の栄弥さんが、横山の家に戻ることは、二度とありませんでした。
(次回、連載384に続く。今回で第5章が終わりました。次回からは、第6章・幕末から維新へ、が始まります。
今日は市長記者会見の日。忙しくてレポートはできませんが、写真だけパチリ)
(前回、栄弥が乗った大八車が動きだすと、末の弟の納次郎とキヨが後を追ってきました。泣きじゃくるキヨは「栄弥さー、行かんでくれー。おら、栄弥さの嫁になるだぁー」と叫んでいました)
それは、数え七つのキヨさんの、あらんかぎりの真実でした。
別れを惜しむ少女の、心からの言葉です。その健気(けなげ)な気持ちが、切々と伝わってきます。
わたくしは、切なさに打たれました。栄弥さんを寺に預けたら、栄弥さんの分まで、キヨさんの成長を見守ろう、と、その時、固く誓ったのでございます。
納次郎さんとキヨさんは、すすり泣きながら、小走りに大八車を追い駆けてきます。小道から広い農道に出るところで、わたくしは再び振り向いて、二人に向かって叫びました。
「もう、いいずらい。寒いだで、早よう、お帰り」
二人の小さな手は、寒さに赤く膨れあがり、その手で、ふたりともが、涙を拭いていました。
「ほれ、寒いでね、ふたりで、手さ繋ないで、ころばんように、早よ、お帰り」
七歳のキヨと三歳の納次郎は、わたくしに言われたとおり、手を繋ぎました。しかし、振り向いて帰る気配はありません。その場に立ちつくしたまま、雪の中を遠ざかる栄弥さんの大八車を、二人並んで見送ったのでした。
大八車を囲んで進む小さな一行は、雪の中を、安楽寺の山を目指して登ります。雪は降る量を増して行きます。小田多井の見送り人から見れば、わたくしたちの一行は、雪の幕の向こう側へと消え行ったと見えたことでしょう。山は白く閉ざされた凍りの世界でした。
その朝、寺へと出立した数え二十の栄弥さんが、横山の家に戻ることは、二度とありませんでした。
(次回、連載384に続く。今回で第5章が終わりました。次回からは、第6章・幕末から維新へ、が始まります。
今日は市長記者会見の日。忙しくてレポートはできませんが、写真だけパチリ)

2022/10/24
連載370。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―32
(前回、起き上れなくなった栄弥の病は思ったより深刻でした。栄弥の代わりに初めて俊量の弧峯院を訪れた、栄弥の父儀十郎の言葉です)
栄弥は、随分沢山の仕事をしていただいね。任せきりだったでね、気づかなかったけどせ。随分頑張っていたのせ。おらには、とても無理だ。家に来てくれている屈強の男衆と交代でも、とてもやりきれねぇ。
それに、栄弥は、駆け足で農家を回り、少しでも早く帰って、家で機械をいじっていたでね。夜も眠らんとせ。
おらたちは、皆で、言ったのせ。
「そんな、あてにもならんことで、疲れるのはよせ」ってせ。
「お前が十四の時に作ってくれた機械で充分でねえか」とね。
ありゃ、今でも役にたっているでね。
でもせ、そうはいかねぇのせ。栄弥の性分だもの。外回りを脱兎のごとくやり終えて、どうしても、もっと楽で早い機械を作らずにはいられねかったのせ。
十四の時の機械と比べたら、今回作ったのは各段に立派だじ。大工に作ってもらっただけのことはある、大きくて、滑車が沢山付いていて、アチコチが廻り、複雑なものだじ。何がどうなっているかは、おらたちにはわからねえけどせ。
栄弥はせ、十四の時の機械は、玩具みたいだったと言ったのせ。栄弥にはそう思えるほど、今度の機械は大きくて立派だじ。
でもせ、もう、あきらめろ、と言っているだ。作り手が動けなくなってしまっただから、それしかあるめ」
(次回、連載371に続く。
今日は市長記者会見の日でした)
(前回、起き上れなくなった栄弥の病は思ったより深刻でした。栄弥の代わりに初めて俊量の弧峯院を訪れた、栄弥の父儀十郎の言葉です)
栄弥は、随分沢山の仕事をしていただいね。任せきりだったでね、気づかなかったけどせ。随分頑張っていたのせ。おらには、とても無理だ。家に来てくれている屈強の男衆と交代でも、とてもやりきれねぇ。
それに、栄弥は、駆け足で農家を回り、少しでも早く帰って、家で機械をいじっていたでね。夜も眠らんとせ。
おらたちは、皆で、言ったのせ。
「そんな、あてにもならんことで、疲れるのはよせ」ってせ。
「お前が十四の時に作ってくれた機械で充分でねえか」とね。
ありゃ、今でも役にたっているでね。
でもせ、そうはいかねぇのせ。栄弥の性分だもの。外回りを脱兎のごとくやり終えて、どうしても、もっと楽で早い機械を作らずにはいられねかったのせ。
十四の時の機械と比べたら、今回作ったのは各段に立派だじ。大工に作ってもらっただけのことはある、大きくて、滑車が沢山付いていて、アチコチが廻り、複雑なものだじ。何がどうなっているかは、おらたちにはわからねえけどせ。
栄弥はせ、十四の時の機械は、玩具みたいだったと言ったのせ。栄弥にはそう思えるほど、今度の機械は大きくて立派だじ。
でもせ、もう、あきらめろ、と言っているだ。作り手が動けなくなってしまっただから、それしかあるめ」
(次回、連載371に続く。
今日は市長記者会見の日でした)

2022/10/17
連載363。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―25
(前回は、栄弥は孤独の内に新機械を生み出さなければならなかったこと、など)
十四歳の終わりに、竹筒の回転による糸撚(よ)り専門器と糸巻き専門器を同時に動かすことに成功した栄弥さんは、その後、二台を連結して一つの動力で動かすことに腐心してきました。それは、思いもよらぬ難事業でした。
昼間は、外回りの仕事がありました。廻る農家は年々増え、その頃には、横山家は足袋底問屋も兼ねるようになっていたので、扱う糸の量も飛躍的に増え、栄弥さんの仕事の量も増えていたのです。
栄弥青年は、身体も大きくなり、力も増し、要領もよくなって、外回りの仕事も精力的にこなしていました。しかし、栄弥さんのやりたい本当の仕事は、機械を作り出すことですから、昼の仕事の後の、夜の時間が勝負の日々でした。
横山の父さまも母さまも、栄弥さんの機械作りは応援していましたけれど、昼の仕事も大切でしたから、「身体こわさねぇように、ええから加減にしておけよ」と言っていましたね。
でもね、栄弥さんは、そのええから加減ができないのですよ。もう、夢中で、のめり込んでいきますからね。
わたくしどもの弧峯院に来るのは月に二度、外回りが休みの日の翌日ですから、一日中機械に夢中になっていた翌日です。ぐったりしていることもありました。
「元気だしましょ」と声をかけると
「あんべが悪い(体調が良くない)」と答えることもありました。
(次回、連載364に続く。
今日は市長記者会見の日でした)
(前回は、栄弥は孤独の内に新機械を生み出さなければならなかったこと、など)
十四歳の終わりに、竹筒の回転による糸撚(よ)り専門器と糸巻き専門器を同時に動かすことに成功した栄弥さんは、その後、二台を連結して一つの動力で動かすことに腐心してきました。それは、思いもよらぬ難事業でした。
昼間は、外回りの仕事がありました。廻る農家は年々増え、その頃には、横山家は足袋底問屋も兼ねるようになっていたので、扱う糸の量も飛躍的に増え、栄弥さんの仕事の量も増えていたのです。
栄弥青年は、身体も大きくなり、力も増し、要領もよくなって、外回りの仕事も精力的にこなしていました。しかし、栄弥さんのやりたい本当の仕事は、機械を作り出すことですから、昼の仕事の後の、夜の時間が勝負の日々でした。
横山の父さまも母さまも、栄弥さんの機械作りは応援していましたけれど、昼の仕事も大切でしたから、「身体こわさねぇように、ええから加減にしておけよ」と言っていましたね。
でもね、栄弥さんは、そのええから加減ができないのですよ。もう、夢中で、のめり込んでいきますからね。
わたくしどもの弧峯院に来るのは月に二度、外回りが休みの日の翌日ですから、一日中機械に夢中になっていた翌日です。ぐったりしていることもありました。
「元気だしましょ」と声をかけると
「あんべが悪い(体調が良くない)」と答えることもありました。
(次回、連載364に続く。
今日は市長記者会見の日でした)

2022/10/12
連載358。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―20
(前回は、栄弥が新作の糸車を持って志野の家を訪ねた時、赤ん坊が生まれました)
顔も綺麗に拭いてもらって、ピカピカの頬の女の子は、湯から上がって、真っ白な晒(さら)し木綿の産着を着せてもらったのせ。そりゃ、みやましか、可愛い女の子に見えたじ。
だってせ、晒(さら)し木綿といやぁ、この辺りじゃ珍しいものだじ。めったにないものだじ。
木綿を晒すのはえらい(大変)なことせ。木綿を灰汁に浸して、煮て、臼の中で叩いて、清水で洗って、それを野原で乾すだじ。それを幾度も繰り返さなならんのだじ。
そんな手間暇かけたもんを着ていたのせ。その女の子は。大切に思われていたずら。みやましか子だったもの」
その赤ちゃんをね、真っ白な晒し木綿の産着を着た女の子を、産婆さんは栄弥さんに抱かせてくれたのです。
栄弥さんは、気が動転したそうですが、囲炉裏端に腰をかけ、落とさないように細心の注意を払って受け取り、その軽やかな重さをしっかり心に留めたと言っていました。
その女の子がキヨさんですからね。出会いというのは不思議です。
その夕暮れ、栄弥さんは、志野さんへの贈り物の糸紡ぎ器を家の人にことづけ、帰途につきました。明日は満月という夜、すでに、大きな月が煌々と東山の上にありました。ススキが金色に揺れ、秋の虫が名残りを惜しんで鳴いています。大妻から小田多井までの月夜の道は、言うに言われぬ綺麗さだったそうです。
それはわたくしにも、良く分かることですよ。栄弥さんが生まれた夜、わたくしも、小田多井から堀金までの満月の夜道を歩き、今までで一番美しいと思えた月夜の時間を過ごしましたもの。
この時、栄弥さんは数え十四で、少年の面影は残していましたが、すでに一人前に働き、志を持ち、自前の道具を生み出しでもいたのですから、青年だったといってもいいでしょうね。そして、栄弥さんの青年時代のもっとも楽しかった時が、この年の九月の満月の夜だったかも知れません。
(今日は市長記者会見の日。先週は「物価高ゆえ、水道基本料金を4か月間徴収せず、各自の手続きは不要」のビックニュースがありました。今週は、秋冬の観光行楽補助のニュースです)

(前回は、栄弥が新作の糸車を持って志野の家を訪ねた時、赤ん坊が生まれました)
顔も綺麗に拭いてもらって、ピカピカの頬の女の子は、湯から上がって、真っ白な晒(さら)し木綿の産着を着せてもらったのせ。そりゃ、みやましか、可愛い女の子に見えたじ。
だってせ、晒(さら)し木綿といやぁ、この辺りじゃ珍しいものだじ。めったにないものだじ。
木綿を晒すのはえらい(大変)なことせ。木綿を灰汁に浸して、煮て、臼の中で叩いて、清水で洗って、それを野原で乾すだじ。それを幾度も繰り返さなならんのだじ。
そんな手間暇かけたもんを着ていたのせ。その女の子は。大切に思われていたずら。みやましか子だったもの」
その赤ちゃんをね、真っ白な晒し木綿の産着を着た女の子を、産婆さんは栄弥さんに抱かせてくれたのです。
栄弥さんは、気が動転したそうですが、囲炉裏端に腰をかけ、落とさないように細心の注意を払って受け取り、その軽やかな重さをしっかり心に留めたと言っていました。
その女の子がキヨさんですからね。出会いというのは不思議です。
その夕暮れ、栄弥さんは、志野さんへの贈り物の糸紡ぎ器を家の人にことづけ、帰途につきました。明日は満月という夜、すでに、大きな月が煌々と東山の上にありました。ススキが金色に揺れ、秋の虫が名残りを惜しんで鳴いています。大妻から小田多井までの月夜の道は、言うに言われぬ綺麗さだったそうです。
それはわたくしにも、良く分かることですよ。栄弥さんが生まれた夜、わたくしも、小田多井から堀金までの満月の夜道を歩き、今までで一番美しいと思えた月夜の時間を過ごしましたもの。
この時、栄弥さんは数え十四で、少年の面影は残していましたが、すでに一人前に働き、志を持ち、自前の道具を生み出しでもいたのですから、青年だったといってもいいでしょうね。そして、栄弥さんの青年時代のもっとも楽しかった時が、この年の九月の満月の夜だったかも知れません。
(今日は市長記者会見の日。先週は「物価高ゆえ、水道基本料金を4か月間徴収せず、各自の手続きは不要」のビックニュースがありました。今週は、秋冬の観光行楽補助のニュースです)


2022/10/05
連載352。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―14
(前回、数え十四の栄弥は、堀金の弧峯院で、思いついた糸車の改良を話すと、石工の新吾さんが、身を乗り出して聞いてくれました)
春が来て、山々にうぐいすの声が響き渡る頃、石工の新吾さんが、次の打ち合わせにやってきました。栄弥さんの来る日は決まっていたので、その日を狙い、わざわざ昼時に合わせてやってきたのです。
そこへ、栄弥さんの大八車が勢いよく弧峯院の門を入ってきました。息せききった栄弥さんは、驚いたように新吾さんを見、私の顔に目を移しながら言いました。
「あのな、俊量さま、松沢さんちの志野さんに、秋に、赤ん坊が生まれるんだと」
あら、まあ、それは、おめでたいこと、とわたくしは言い、まずは、栄弥さんを昼ご飯に誘って、座ってもらいました。石工の新吾さんも、もちろんそのつもりで、一緒です。栄弥さんは続けます。
「そのことを聞いたのは、一昨日のことせ。おらあ、なんだか、嬉しくて、その時までには、新しい道具を完成させたいと思っただ。志野さんへのお祝いにしたいのせ」
新吾さんがいいました。
「ほう、それは、良いことじゃ。志野さんとやらも、そりゃ、喜ぶずら。で、どんな、道具をお祝いにするだか」
栄弥さんはそう聞かれて、勇気を得たようです。ためらっていたことを話し初めました。
「その夜のことだじ、そうせ一昨日の夜せ、いつもみたいに、火吹き竹に綿を入れて左手で握り、右手で摘み出して、糸引きの加減を探していただ。綿(わた)の違いで、また天候によっても加減が違うでね。
志野さんの赤ん坊の事を考えて、なんだかボーとしていただかやぁ、おれは。左手で持っていた火吹き竹を、つい、落としたのせ。
右手は、竹筒から引き出した糸を、しっかり掴んでいただいね。するとね、縁側の下にころころと転がっていった竹筒の口から、するすると糸が伸び、くるくると回転しながら落ちたのせ。筒がころころと転がったせいで、糸にはひとりでにより(撚り)がかかっていただよ。
(次回、連載353に続く。
写真は今日の市長記者会見。忙しくなったので投稿はサボっていますが、メモを取らずに聞くだけの方が、面白さがわかりますね。一番身近な最新の情報だから。いつものくせで、ついパチリ)
(前回、数え十四の栄弥は、堀金の弧峯院で、思いついた糸車の改良を話すと、石工の新吾さんが、身を乗り出して聞いてくれました)
春が来て、山々にうぐいすの声が響き渡る頃、石工の新吾さんが、次の打ち合わせにやってきました。栄弥さんの来る日は決まっていたので、その日を狙い、わざわざ昼時に合わせてやってきたのです。
そこへ、栄弥さんの大八車が勢いよく弧峯院の門を入ってきました。息せききった栄弥さんは、驚いたように新吾さんを見、私の顔に目を移しながら言いました。
「あのな、俊量さま、松沢さんちの志野さんに、秋に、赤ん坊が生まれるんだと」
あら、まあ、それは、おめでたいこと、とわたくしは言い、まずは、栄弥さんを昼ご飯に誘って、座ってもらいました。石工の新吾さんも、もちろんそのつもりで、一緒です。栄弥さんは続けます。
「そのことを聞いたのは、一昨日のことせ。おらあ、なんだか、嬉しくて、その時までには、新しい道具を完成させたいと思っただ。志野さんへのお祝いにしたいのせ」
新吾さんがいいました。
「ほう、それは、良いことじゃ。志野さんとやらも、そりゃ、喜ぶずら。で、どんな、道具をお祝いにするだか」
栄弥さんはそう聞かれて、勇気を得たようです。ためらっていたことを話し初めました。
「その夜のことだじ、そうせ一昨日の夜せ、いつもみたいに、火吹き竹に綿を入れて左手で握り、右手で摘み出して、糸引きの加減を探していただ。綿(わた)の違いで、また天候によっても加減が違うでね。
志野さんの赤ん坊の事を考えて、なんだかボーとしていただかやぁ、おれは。左手で持っていた火吹き竹を、つい、落としたのせ。
右手は、竹筒から引き出した糸を、しっかり掴んでいただいね。するとね、縁側の下にころころと転がっていった竹筒の口から、するすると糸が伸び、くるくると回転しながら落ちたのせ。筒がころころと転がったせいで、糸にはひとりでにより(撚り)がかかっていただよ。
(次回、連載353に続く。
写真は今日の市長記者会見。忙しくなったので投稿はサボっていますが、メモを取らずに聞くだけの方が、面白さがわかりますね。一番身近な最新の情報だから。いつものくせで、ついパチリ)

連載344。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―6
(前回は、栄弥が志野を見ていて、糸紡ぎは大変だと思い、糸紡ぎの道具に心が向きます。それで、今日は、ツムや糸車の説明。機械に弱い方は、読まずに飛ばしていただいても、、、、。長いし)
(ツムは)引き出された糸がある程度よじれたら、更に糸を引きだしてよじります。よじれた糸が一尺半(45センチくらい)ほどになったところで、糸をカギ金具から外し、カギと反対側の長い軸棒にくるくると巻き付けるのです。
軸を指で回しながら、糸をより、糸を巻き取ることを交互に繰り返すこのツムは、昔からあるまことに便利な道具で、先祖代々これだけで、麻や綿(めん)から糸を紡いできました。
横山家で糸紡ぎを家業として始めた時、儀十郎さんは師匠の政四郎さんから糸車を使うことを教わりました。ツムと糸車は原理は同じです。ツムの軸を指で廻すのではなく、はずみ車で効率良く回すだけです。
糸車は、ツムと同じ役目の木の軸が、大きなはずみ車と紐で連結されています。はずみ車の取っ手を手で回すと、一回転する間に、糸車の筆ほどの太さの木の軸が数十回転するので、高速で糸を撚ることができるのです。
糸車の木の軸は手紡ぎの時のツムの役目ですが、ツムからコマの円盤がなくなり、木の軸だけになりました。円盤はツムを回すための重りに使われていたから、糸車では必要がないのです。
糸車では、綿塊を手に持ち、少し綿を引き出し、引き出した綿を木の軸に縛ります。木の軸と引き出された糸が一直線になるようにして、はずみ車で木軸を回すと、綿がよじれて糸ができます。後は手紡ぎと同じ要領で、少し綿を引き出してよじる、引き出してよじるの繰り返しです。
ある程度糸が長くなったら今度は、糸と木の軸を直角にして木の軸に糸を巻き取ります。これを繰り返し、長い糸をつくるのでした。
以前のツムでは、短い方の軸の先にはカギ型の金具が付いていましたが、糸車の木の軸は先が丸く滑るようにスベスベの球になっていています。糸は木軸の先端でつるつると滑り、木軸には巻き付かずに撚(よ)ることができました。
紡ぎ手は、綿塊を持った左手を大きく広げ、綿塊から延びる糸と木軸の角度を調節しながら右手ではずみ車をまわし、糸を撚(よ)ります。
次に拡げた手を狭め、糸と木軸とを直角にし、糸を巻き取ります。直角だと、糸が先端の球に触れず、従って滑らず撚(よ)りが止まり、軸の回転に合わせて糸が巻き取られて行くのでした。
ツムも糸車も、糸の撚(よ)りと巻き取りの二段階です。軸を回転させる方法が違うだけでした。
(次回、連載345に続く。
昨日不調だったフラッシュエアは深夜に回復しましたが、こちらのほうが良いわね。写真は、今朝の市民タイムス。グアテマラへ行く若き女性に私もエール!)
(前回は、栄弥が志野を見ていて、糸紡ぎは大変だと思い、糸紡ぎの道具に心が向きます。それで、今日は、ツムや糸車の説明。機械に弱い方は、読まずに飛ばしていただいても、、、、。長いし)
(ツムは)引き出された糸がある程度よじれたら、更に糸を引きだしてよじります。よじれた糸が一尺半(45センチくらい)ほどになったところで、糸をカギ金具から外し、カギと反対側の長い軸棒にくるくると巻き付けるのです。
軸を指で回しながら、糸をより、糸を巻き取ることを交互に繰り返すこのツムは、昔からあるまことに便利な道具で、先祖代々これだけで、麻や綿(めん)から糸を紡いできました。
横山家で糸紡ぎを家業として始めた時、儀十郎さんは師匠の政四郎さんから糸車を使うことを教わりました。ツムと糸車は原理は同じです。ツムの軸を指で廻すのではなく、はずみ車で効率良く回すだけです。
糸車は、ツムと同じ役目の木の軸が、大きなはずみ車と紐で連結されています。はずみ車の取っ手を手で回すと、一回転する間に、糸車の筆ほどの太さの木の軸が数十回転するので、高速で糸を撚ることができるのです。
糸車の木の軸は手紡ぎの時のツムの役目ですが、ツムからコマの円盤がなくなり、木の軸だけになりました。円盤はツムを回すための重りに使われていたから、糸車では必要がないのです。
糸車では、綿塊を手に持ち、少し綿を引き出し、引き出した綿を木の軸に縛ります。木の軸と引き出された糸が一直線になるようにして、はずみ車で木軸を回すと、綿がよじれて糸ができます。後は手紡ぎと同じ要領で、少し綿を引き出してよじる、引き出してよじるの繰り返しです。
ある程度糸が長くなったら今度は、糸と木の軸を直角にして木の軸に糸を巻き取ります。これを繰り返し、長い糸をつくるのでした。
以前のツムでは、短い方の軸の先にはカギ型の金具が付いていましたが、糸車の木の軸は先が丸く滑るようにスベスベの球になっていています。糸は木軸の先端でつるつると滑り、木軸には巻き付かずに撚(よ)ることができました。
紡ぎ手は、綿塊を持った左手を大きく広げ、綿塊から延びる糸と木軸の角度を調節しながら右手ではずみ車をまわし、糸を撚(よ)ります。
次に拡げた手を狭め、糸と木軸とを直角にし、糸を巻き取ります。直角だと、糸が先端の球に触れず、従って滑らず撚(よ)りが止まり、軸の回転に合わせて糸が巻き取られて行くのでした。
ツムも糸車も、糸の撚(よ)りと巻き取りの二段階です。軸を回転させる方法が違うだけでした。
(次回、連載345に続く。
昨日不調だったフラッシュエアは深夜に回復しましたが、こちらのほうが良いわね。写真は、今朝の市民タイムス。グアテマラへ行く若き女性に私もエール!)

2022/09/23
連載340。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―2
(前回から、青年栄弥の巻です。栄弥は、初めて一人で大妻の志野さんの家を訪ね、再び晩ご飯をご馳走になりました)
松沢家の囲炉裏端で温かい時間を過ごし、おいとまをして外に出ると、空には無数の星が輝いていました。明日は新月という夜、北へ長く続く山脈の上で、満天の星明かりが、降るように平らを照らしています。
これから、小田多井まで、二里の道のりを帰るのです。もし、松沢家でご馳走にならなかったら、まだ少年の栄弥さんが、大八車を引いて帰りつくことは出来なかったでしょう。身体は疲れていましたが、気持ちは感謝や感動がいっぱいでした。
星空の下の春の夜風は、人の心を揺らし、神社や寺や屋敷林の樹々を揺らし、西山を駆けおりて梓川へと流れていきます。
雪解け水が流れる堰の瀬音を聞きながら、春宵一刻値千金(しゅんしょう・いっこく・あたい・せんきん)の美しい夜を、栄弥さんは陶然として歩きました。自分の仕事にたいするやりがいと、誇りと、喜びを強く感じた、その最初の日でした。
大妻経路の最後の松沢家のお話しは、栄弥さんから良く聞きましたので、北の堀金弧峯院から南の大妻は遠くても、わたくしたち弧峯院の者にとって、松沢家はとても親(ちか)しい思いでおりました。
松沢さんでは、毎回、晩ご飯をご馳走になったそうですよ。その時、見聞きした話を、翌々日の弧峯院の昼餉で話してくれるのですから、栄弥さんが、わたくしたちと一緒に昼餉を取りながら話してくれた一番のことは、前々日の夜、大妻の松沢家の囲炉裏端で、何をご馳走になったかです。栄弥さんは、食べることが好きでしたからね。
(次回、連載341に続く。
写真は、今朝の市民タイムス1面)
(前回から、青年栄弥の巻です。栄弥は、初めて一人で大妻の志野さんの家を訪ね、再び晩ご飯をご馳走になりました)
松沢家の囲炉裏端で温かい時間を過ごし、おいとまをして外に出ると、空には無数の星が輝いていました。明日は新月という夜、北へ長く続く山脈の上で、満天の星明かりが、降るように平らを照らしています。
これから、小田多井まで、二里の道のりを帰るのです。もし、松沢家でご馳走にならなかったら、まだ少年の栄弥さんが、大八車を引いて帰りつくことは出来なかったでしょう。身体は疲れていましたが、気持ちは感謝や感動がいっぱいでした。
星空の下の春の夜風は、人の心を揺らし、神社や寺や屋敷林の樹々を揺らし、西山を駆けおりて梓川へと流れていきます。
雪解け水が流れる堰の瀬音を聞きながら、春宵一刻値千金(しゅんしょう・いっこく・あたい・せんきん)の美しい夜を、栄弥さんは陶然として歩きました。自分の仕事にたいするやりがいと、誇りと、喜びを強く感じた、その最初の日でした。
大妻経路の最後の松沢家のお話しは、栄弥さんから良く聞きましたので、北の堀金弧峯院から南の大妻は遠くても、わたくしたち弧峯院の者にとって、松沢家はとても親(ちか)しい思いでおりました。
松沢さんでは、毎回、晩ご飯をご馳走になったそうですよ。その時、見聞きした話を、翌々日の弧峯院の昼餉で話してくれるのですから、栄弥さんが、わたくしたちと一緒に昼餉を取りながら話してくれた一番のことは、前々日の夜、大妻の松沢家の囲炉裏端で、何をご馳走になったかです。栄弥さんは、食べることが好きでしたからね。
(次回、連載341に続く。
写真は、今朝の市民タイムス1面)

2022/09/21
連載338。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥―44
(前回、栄弥の外回りの担当は、比較的高低差の少ない、平らを南北に移動する道になりました)
十四経路の外回りは、満月と新月の日がお休みです。月の出と月の大きさの関係で、一月に3日間の休みがあることもありました。
栄弥さんが担当する十四の経路の一番目が、弧峯院を昼に通過す堀金経路で、最後の十四番目が、南の端まで行く大妻経路です。
初めの弧峯院堀金経路と最後の大妻経路は、お休みを挟んで連続しており、堀金の前が大妻でしたから、自然と、栄弥さんの話題は大妻経路のことが多くなりました。
少し前にわたくしが話した、栄弥さんが雪の日に長芋汁やおやきをご馳走になった話も、外回り仕事の途中、弧峯院で昼ご飯を食べながら、栄弥さんが話してくれたことですよ。
この昼餉時、わたくしは、栄弥さんについて沢山の事を知りました。わたくしは聞きたがり屋でしたし、栄弥さんも良く話してくれました。弧峯院の昼餉振る舞いのお礼にと、栄弥さんも頑張ったのかも知れませんね。
その後七年余り、毎月二度、昼時に、栄弥さんは弧峯院へ寄ってくれました。その言葉の数々を繋げるとね、次のようなお話しになるのです。栄弥さんが、外回りを始めた数え十二歳のころから、二十歳までのことですよ。
なんと言ったらいいのでしょう。栄弥少年が青年へと変貌する、困難な時期のお話しです。志に萌え、苦闘した時期でもありました。その時期の栄弥さんを知ることができたのは、わたくしの宝でもあったのでございます。
(今日で、第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥、が終了です。
次は、②俊量が語る青年栄弥。苦闘の物語になります。
写真は、二つとも今朝の市民タイムスより)

(前回、栄弥の外回りの担当は、比較的高低差の少ない、平らを南北に移動する道になりました)
十四経路の外回りは、満月と新月の日がお休みです。月の出と月の大きさの関係で、一月に3日間の休みがあることもありました。
栄弥さんが担当する十四の経路の一番目が、弧峯院を昼に通過す堀金経路で、最後の十四番目が、南の端まで行く大妻経路です。
初めの弧峯院堀金経路と最後の大妻経路は、お休みを挟んで連続しており、堀金の前が大妻でしたから、自然と、栄弥さんの話題は大妻経路のことが多くなりました。
少し前にわたくしが話した、栄弥さんが雪の日に長芋汁やおやきをご馳走になった話も、外回り仕事の途中、弧峯院で昼ご飯を食べながら、栄弥さんが話してくれたことですよ。
この昼餉時、わたくしは、栄弥さんについて沢山の事を知りました。わたくしは聞きたがり屋でしたし、栄弥さんも良く話してくれました。弧峯院の昼餉振る舞いのお礼にと、栄弥さんも頑張ったのかも知れませんね。
その後七年余り、毎月二度、昼時に、栄弥さんは弧峯院へ寄ってくれました。その言葉の数々を繋げるとね、次のようなお話しになるのです。栄弥さんが、外回りを始めた数え十二歳のころから、二十歳までのことですよ。
なんと言ったらいいのでしょう。栄弥少年が青年へと変貌する、困難な時期のお話しです。志に萌え、苦闘した時期でもありました。その時期の栄弥さんを知ることができたのは、わたくしの宝でもあったのでございます。
(今日で、第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥、が終了です。
次は、②俊量が語る青年栄弥。苦闘の物語になります。
写真は、二つとも今朝の市民タイムスより)

