連載411。小説『山を仰ぐ』第6章ー⓷廃仏毀釈と安達達淳ー3
 (明治二年、水戸学を学んだ元松本藩主の戸田光則が藩知事になり、廃仏毀釈の旗を振っていました。語りは俊量尼です)

 いったい、わたくしどもの寺はどうなるのでしょうと不安になっていたある日、大町霊松寺の安達達淳和尚が久ぶりに、ひょっこり堀金の尼寺に顔を出されました。
 霊松寺は信濃国最初の曹洞宗のお寺ですから、同じ宗の安楽寺よりも古くて格が上です。
 でも、安楽寺の末寺の尼寺も、仲良くさせていただいています。大町の安達和尚が松本へ御用の時など、西山の中腹の安楽寺までは足を延ばさなくとも、平らの堀金弧峯院には寄ってくださるのですよ。
 「おう、俊量、元気にしとるか」という具合です。
 安達和尚さまは、わたくしよりたったの四つ年上なだけなのに、いつもわたくしを子供扱いなさいます。偉いお坊様ですが、えらっぽくない方です。 
 でもね、見かけはいかつくて、低い声に力がありますから、初めての方は怖いと思うでしょうね。耳が羽ばたくように大きいし、真一文字の眉毛は濃くて太いですから、にらまれたら震え上がるでしょう。
 安達和尚さまは、富山の生まれで、七歳の時加賀前田侯の菩提寺宝内寺に入り、十歳で得度、二十九歳で富山海岸寺の首座になられました。大本山の総持寺などを経て、大町の霊松寺にはいられたのは七年前の文久三年(1863年)、和尚様が四十一歳の時のことでございました。
 霊松寺は、弘化四年(1847年)の善光寺地震で寺が倒壊炎上しましたが、安達和尚が着任後、全国を廻り寄付をあつめ、復興に力を尽くされています。安達達淳さまは気骨のある和尚さんとして名を知られ、再建したりっぱな庫裡がご自慢でございます。

 (次回、連載412に続く。
 写真は、1月の終わりに父の法事で静岡に行った時、大工の息子の家に寄り、裏庭のみかんをもいで持って来て、焼酎に漬けました。
 お猿の博士は、24年前、娘の大学の卒業式があったセントラルパークで、やがて娘の夫になる青年が、私に買ってくれたもの)

連載410。小説『山を仰ぐ』第6章・幕末から明治へ(文久元年・1861年~明治4年・1871年)―③廃仏毀釈と安達達淳ー2
 (前回から、明治2年です。語りは俊量尼から、青年正彦へ)

 仏門にある私には驚くようなことでしたが、変革を思う若き方々に仏教は色あせて見えたのかもしれません。松本藩には平田一門衆など神道を推す熱い勢力があり、若き藩主を後押ししたのだと、少し後に、私俊量は、武居正彦さんからお聞きしたのでございます。
 正彦さんの時事解説は次のような次第でした。
 「江戸幕府の末期に藩政を担っていた松本藩主戸田光則さまは、十七歳で藩主になられ、御一新の時は三十歳でした。
 変革期の荒波を超える難しい藩政に、水戸学を学ばれていた若き藩主の光則さまは、進取の意欲で立ち向かいたかったのですが、松本藩の保守的な老中たちに阻まれ、表向きはのらりくらりの姿で幕末を迎えたようです。
 戊辰戦争の折は、藩内の意見調整のために新政府への帰順が遅れ、それゆえ松本藩は、謹慎や膨大な軍資金や兵糧の拠出と出兵など、不利な目にあいましたよね。
 藩主光則さまはおおいに反省され、明治二年の六月に松本藩の知藩事に任命されると「これからは私の時代」とばかり水を得た魚のごとく、新政府の「神仏判然令」にいち早く反応したのです。
 当時の進取といえば、草莽の志士たちの思想、水戸学や平田学でしたから、光則さまの周りには、廃仏毀釈で新しい社会を作るという考えに燃えた方々が集合しておりました。その思想に後押しされ、また光則さま自身も廃仏毀釈には賛成だったのです」
 
 (次回、連載411に続く。
写真は、穂高の整体師、宮沢公人さんの紹介です。
 私はここ1年ほど腰痛で座れず、立って食事をしていたくらいでしたが、宮沢公人さんに3回施術をしてもらったら、魔法のように痛みが消えました。
 施術は、そ~~と手を置くだけ、というくらいのシンプルなものなのに。腰痛、ひざ痛他で悩んでいる方にお勧めです。
 料金は一応60分5千円と書いてありますが、その方のお気持ちでいいそうです。料金も教会の献金みたいに、入り口の箱にいれるんですって。初回は無料でいいそうです。ぜひ、おすすめです。℡090-5991-5424https://www.pinkoroclub.com/)

連載409。小説『山を仰ぐ』第6章・幕末から明治維新へ(文久元年・1861年~明治4年・1871年)―③廃仏毀釈と安達達淳ー1
 (今回から、第6章ー③が始まります。俊量尼の、明治二年の語りです)
 
 山国の小さな寺の尼にとって、幕末から明治への移り変わりは、訳がわからないことだらけでございました。
 とりわけ気にかかり心を騒がせているのが、御一新を契機として、世間では仏教や神道をめぐる意見が噴出していることです。平田門下や尊皇攘夷の草莽の志士の方々が神道を推し、葬式も神道でするべきという運動も高まっておりました。
 そうした折、明治元年と同じ年の慶応四年の三月のこと、まだ明治と改元されていない時期に、新政府から「神仏判然令」というのが出されたのでございます。
 神道と仏教を区別せよ、とのことですが、こういうお触れがでるくらいですから、これまでは神道と仏教は区別がないも同然でした。神仏習合は普通のことで、寺と神社が隣りどうしで立っている場合もあり、同居している場合もありました。
 「神仏判然令」が出た年、信州では国の神社になる予定の戸隠神社や諏訪神社内の寺の破壊が行われ、僧は帰農させられたと聞いて、腰が抜けるほど驚いたのでございます。
 「神社内の寺は打ちこわし、仏像も仏具も破棄し、僧は神社に入ってはいけない」というようなお触れがでたということは、びっくりするような出来事で、仏教への風当りが強くなっていきました。
 明治二年六月、知藩事となった元藩主戸田光則さまは、戸田家自ら神道帰依を宣言し、ご自分の菩提寺の全久院を廃し、女鳥羽川に仏像を投げ捨てるなど、率先して廃仏稀釈を断行されたのでございます。

 (次回連載410へ続く。
写真は、今年の元旦の朝焼け。穂高キリスト教会の毛見昇牧師撮影(週報付きのお手紙より)です。この風景は、小説に登場する飛騨山脈(北アルプス)で、俊量や智恵が毎日見ていた景色です)

連載408。小説『山を仰ぐ』第6章ー②明治二年ー10 

 (1月16日の投稿の続きです。今日で第6章(幕末から維新、廃仏毀釈へ)-②正彦とキヨが俊量を訪ねる、が終わります。語りは17才の武居正彦で今日が最後です)

 一昨年の慶応三年(1867年)一月に、幕府最後の将軍の弟、徳川昭武さまの使節団が、フランスパリの万国博覧会に出席のために出発されたのですよ。パリの万博には、幕府のほかに、討幕派の薩摩藩と佐賀藩が、日の本の代表を名乗って参加していたので、パリで幕府の代表と鉢合わをしてしまった、ということです。可笑しいですね。
 同じ年の三月に、幕府は軍艦購入交渉と軍艦受け取りのため、アメリカへ人をやっています。福沢諭吉さんはまたも通訳として渡航し、ついでに「西洋旅案内」を書いて、同じ年の冬の初めには出版されました。
 幕府がエゲレスへ送り、中村正直さんが率いた留学生は、作年の明治元年(1868年)の六月に帰国し、十一月三日には、パリとヨーロッパへ行った徳川昭武さま一行も、横浜に帰国されました。政変があったから、呼び戻されたというわけです。
 ね、御一新の前に、けっこう多くの方が海を渡っていますでしょう。それが必要な時代なのです」
 武居正彦さんの熱のこもったお話しが終わりました。異国へ行きたいという正彦さんの燃えるような気持が伝わってきましたよ。
 外へ目を向ける熱い風を残し、正彦さんがキヨさんと一緒に、堀金の尼寺から南に帰っていったのは、明治二年(1869年)の盆の終わりのことでございました。

 (次回、連載410に続く。次からは第6章ー③廃仏毀釈と安達達淳、が始まります。
 写真は、二か月ほど前の、松本フォークダンスクラブのクリスマスパーティー。40曲を踊った後の笑顔と、その夜の懇親会のアホな笑顔です。踊っている最中だって笑っているのにね)

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