連載347。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―9
 (前回は、糸車の改良を考え始めた栄弥。現実の裏にあるもう一つの世界を見ようと、目を凝らし始めました。思うことは沢山あっても、焦点が絞れません)

 栄弥さんが数えの十二で仕事を始めた嘉永六年(1853年)は、夏の初めにペルリが初めて浦賀来た年です。夏の終わりには、長崎にロシアも来て開国を迫まり、日の本は大揺れでした。
 その上、翌年の嘉永七年(1854年)には、日の本のあちこちでほんとに大地がガタガタ揺れる大きな地震が幾つも起きたのです。
 大津波も来たし、山崩れもありました。人も大勢死にました。大地震で大きな被害がでたので、厄払いのために改易し、年号は嘉永から安政に変わりました。
 ですから、後に安政の大地震と言われる、伊賀上野地震、安政東南海大地震、安政南海大地震、豊予海峡地震は、安政元年と同じ年の嘉永七年に起きています。
 安政二年には、飛騨地震、陸前地震、遠州灘地震、安政江戸大地震が、安政三年には安政八戸沖大地震、江戸地震が起きました。その後も駿河、伊予、飛越など、安政の七年間が終わるまで、巨大地震の余震がいくつもあり、これら全部が安政の大地震です。
 嘉永七年(安政元年・1854年)の十一月四日(新暦では12月23日)の安政東海地震は、東海道沖が大揺れでした。その翌日には、これまた巨大な安政南海地震が起きました。
 聞いた話では、大津波で人家が流れ、船は山の頂まで流れ上がり、陸は潰れ、大火となり、山崩れで大きな川がせき止められ、地割れで水が湧き、雷もとどろいて、それはそれは恐ろしいことだったそうです。
 その時、この平らも大揺れで、地震の起きた朝四つ(10時ごろ)、わたくしは堀金にいて、どーんと言う大きな音と大きな揺れで腰を抜かしました。寺は丈夫な造りだったので無事でしたが、掘っ立て小屋の農家は潰れました。弧峯院はすぐさまお助け所になって、忙しい日が続きましたよ。
 わたくしの父と母がいる松本の御城下は、もっと大変なことになっていたのです。中町新小路から神明小路まで、潰れて出火し、消失しました。父と母は幸い頑丈な蔵の中に居て無事でしたが。
 その夜、殿さまより、裏家、表家の区別なく潰れや焼失の家に、金一両、白米二俵、炭五俵が下し置かれたそうです。弘化四年(1847年)の善光寺地震よりも、被害は大きかったですね。

 (次回、連載348に続く。
 写真は、3年前の今日(2019.9.30)。秋たけなわの強い陽射しと青い空の下で)

連載346。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―8 
 (前回栄弥は、志野さんのためにも、何が何でも糸紡ぎ器の改良をしたいと決意しました)

 その日以来、栄弥さんは、明けても暮れても、もっと早く効率良く糸を紡ぐ方法がないかと考え始めました。それまで漠然としていたものを、具体的に産み出す必要に迫られたのです。
 見る物聞く物の全てが、以前と違ってきました。見えている現実の背後に、今自分が産み出したいと願っているある具体的な何かが隠れていて、それを目を凝らして探しだしているような毎日でした。
 どうしたら、もっと早くもっと沢山の糸が紡げるか。
 思う事は沢山ありました。
 左手に持つ綿塊の量がもっと多ければ、糸継ぎの回数が減って、時間は短く出来る。
 糸継ぎは、最後の糸を右手で取り、左手で新しい綿塊を掴んでそれを重ねて繋げるだが、これが何らかの方法で人手を使わずにできれば、切れ目なく糸が紡げる。
 はずみ車で木軸を回転させ、木軸の先でまず糸によりをかけ、次に木軸に糸を巻き取るだが、これが同時にできたら、時間は短くなる。
 一度に数本の糸を引き出せれば、今の一本より沢山できる。
 右手のはずみ車回しを手ではなく足で廻せば、両手で綿塊をつかみ、糸が同時に数本引き出せるかもしれない。
 糸車を回す力は足でなくてもよい。水の流れを使って廻せたら、人がいなくても仕事が進む。
 などなど、、、、。
 思うことは沢山あっても、何をどうしたら良いかの焦点が絞れません。考えが頭の中をグルグルするだけで、月日は瞬く間に過ぎて行きました。

 (次回、連載347に続く。
 写真は5年前の今日の庭の菜園。ちゃんと、耕して畝まで作ってある、、、。今は、小説にかまけて、草ぼうぼうです。)

連載345 小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―7
 (前回は、昔ながらの糸紡ぎ器のツム(スピンドル)と最近の糸車の構造について、でした。語りは俊量尼です)

 春から始めた外回りの仕事に余裕が出て来た秋、栄弥さんは、思ったのでした。
 『志野さんは、暇さえあれば糸車を回している。
 まず、ふわふわの綿塊を左手でつかみ、綿(わた)から引き出された糸を、はずみ車を廻して紡いでいくだ。綿塊を持つ左手と腕を大きく上げ、右手ではずみ車の取っ手を掴み木軸を廻し糸をよじる。良い加減によじれたら、左手を下げ回転している木軸に巻き取っていく。
 一度に手に持てる綿塊の量は知れているだから、手持ち綿がなくなると新たに綿を掴(つか)みなおさななんねぇ。新たに掴んだ綿塊と、途切れた糸の最後を重ねて繋ぎ、再度よりをかけ、巻き取ってゆくだいね。これは、えらいことずら。
 いつも赤ん坊を背負って仕事をするだから、そりゃ、えらいずら。毎日の飯も作って、洗濯もして、子供もみながら糸紡ぎをするだから、そりゃ、えらいずら、、、、、』
 そのことに気づいた時も、栄弥さんは、涙ぐんだそうです。涙を手の甲でぬぐいながら、くちびるを噛むように、思いました。
 「おらが、なんとか、せねばなんねえ。おらが、新しい道具をつくらなならん。もっと、少しの力で沢山の糸を紡げる機械は、絶対あるはずだで。
 おらのかっ(母)さまが糸紡ぎをしている時にも、もっと楽にしてやりてえ、って思っていたではねえか。もっとしっかり、考えねばならねえ。そのために、大工の仕事も見させてもらったではねえか」とね。 
 
 (次回、連載346に続く。
写真は、最近のTV画面より。安曇野の県立こども病院と北アルプス)

連載344。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―6
 (前回は、栄弥が志野を見ていて、糸紡ぎは大変だと思い、糸紡ぎの道具に心が向きます。それで、今日は、ツムや糸車の説明。機械に弱い方は、読まずに飛ばしていただいても、、、、。長いし)

 (ツムは)引き出された糸がある程度よじれたら、更に糸を引きだしてよじります。よじれた糸が一尺半(45センチくらい)ほどになったところで、糸をカギ金具から外し、カギと反対側の長い軸棒にくるくると巻き付けるのです。
 軸を指で回しながら、糸をより、糸を巻き取ることを交互に繰り返すこのツムは、昔からあるまことに便利な道具で、先祖代々これだけで、麻や綿(めん)から糸を紡いできました。 
 横山家で糸紡ぎを家業として始めた時、儀十郎さんは師匠の政四郎さんから糸車を使うことを教わりました。ツムと糸車は原理は同じです。ツムの軸を指で廻すのではなく、はずみ車で効率良く回すだけです。
 糸車は、ツムと同じ役目の木の軸が、大きなはずみ車と紐で連結されています。はずみ車の取っ手を手で回すと、一回転する間に、糸車の筆ほどの太さの木の軸が数十回転するので、高速で糸を撚ることができるのです。
 糸車の木の軸は手紡ぎの時のツムの役目ですが、ツムからコマの円盤がなくなり、木の軸だけになりました。円盤はツムを回すための重りに使われていたから、糸車では必要がないのです。
 糸車では、綿塊を手に持ち、少し綿を引き出し、引き出した綿を木の軸に縛ります。木の軸と引き出された糸が一直線になるようにして、はずみ車で木軸を回すと、綿がよじれて糸ができます。後は手紡ぎと同じ要領で、少し綿を引き出してよじる、引き出してよじるの繰り返しです。
 ある程度糸が長くなったら今度は、糸と木の軸を直角にして木の軸に糸を巻き取ります。これを繰り返し、長い糸をつくるのでした。
 以前のツムでは、短い方の軸の先にはカギ型の金具が付いていましたが、糸車の木の軸は先が丸く滑るようにスベスベの球になっていています。糸は木軸の先端でつるつると滑り、木軸には巻き付かずに撚(よ)ることができました。
 紡ぎ手は、綿塊を持った左手を大きく広げ、綿塊から延びる糸と木軸の角度を調節しながら右手ではずみ車をまわし、糸を撚(よ)ります。
 次に拡げた手を狭め、糸と木軸とを直角にし、糸を巻き取ります。直角だと、糸が先端の球に触れず、従って滑らず撚(よ)りが止まり、軸の回転に合わせて糸が巻き取られて行くのでした。
 ツムも糸車も、糸の撚(よ)りと巻き取りの二段階です。軸を回転させる方法が違うだけでした。

 (次回、連載345に続く。
 昨日不調だったフラッシュエアは深夜に回復しましたが、こちらのほうが良いわね。写真は、今朝の市民タイムス。グアテマラへ行く若き女性に私もエール!)

連載343。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―5 
 (前回は、大妻の松沢志野の料理の味が、後の栄弥の糧になったお話しでした)

 話しを元に戻しましよう。
 嘉永六年(1853年)、数え十二歳の栄弥さんが外回りの仕事を始めた頃、志野さんの上の男の子は数えの四つで、栄弥さんの訪問を楽しみにしていました。
 栄弥さんは、自分が使った独楽(コマ)や竹馬を持って行き、短い時間でしたが、一緒に遊ぶのが楽しみでした。栄弥さんにはまだ弟がいませんでしたからね。もちろん玩具(おもちゃ)は贈りものですよ。栄弥さんなら、新しいものを作れましたから。
 もう一人の、生まれて間もない下の男の子は、いつも志野さんの背中に負われていました。
 栄弥さんは初め、兄やの仕事を引き継ぐのに精一杯で気が付きませんでしたが、夏の暑さが過ぎて野山に涼風が立つ頃、空が青々としてきた秋になって、栄弥さんは、はたと思ったのです。
 『おらが行くたびに、志野さんは、糸紡ぎの量を増やしてくれる。そのことは、おらの家にとってはありがてぇことだが、志野さんにとってはえらい(大変な)ことずら』
 大妻の志野さんの所も、わたくしたちの弧峯院も、横山家から糸紡ぎの仕事をもらっている近隣の農家は皆、仕事の初めに横山家から糸車を貸してもらっています。
 糸車がなかった以前の手紡ぎ(てつむぎ)は、独楽(コマ)をひと回り大きくし、コマの軸を引き延ばしたような道具を使いました。この道具はツム(紡錘・スピンドル)と呼ばれ、軸の半ばにコマの輪(円盤)が付いていて、輪を境に軸を短い方と長い方に分けています。
 コマの短い軸の先端にカギ型の金具が付いているので、綿塊(篠綿・しのわた)から引き出した綿をこのカギ型の金具に引っ掛け、糸を持って引っ張るようにコマを吊します。
 すると、カギが付いている短い軸が上、コマの長いほうの軸が下になります。その下に垂れた軸の先を、指先で勢いよく回すことで糸がよじれるのでした。

 (次回、連載344に続く。
フラッシュエアーが作動しなくて、、、。今日の写真はこれで。)

連載342。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―4
 (前回は、12歳から19歳までの七年間、月に二度、馳走になった志野さんの晩ご飯でした)

 栄弥さんは後に安楽寺の僧になってから、典座(てんぞ・料理係)を任じられました。心を込めた料理がどれほど嬉しいものかを、志野さんから教えてもらっていたので、典座を立派に勤めることができたのです。もともと、味の見分けが良く分る人だったのでしょうが。
 精進料理の奥深さは、わたくしたち弧峯院の食事から学んだと思いますよ。栄弥さんの母さまのなみさんは大ざっばな方で、繊細な料理は苦手でしたからね。なみさんは、食べ物はなんでも美味しいと言っていましたね。
 栄弥さんが外回りの仕事を始めてから二年後、志野さんに初めての女の子が生まれました。男の子二人の下に。その女の子がキヨさんですから、キヨさんの料理の味は志野さんの味です。
 僧になった栄弥さんは、智恵さまのことですが、キヨさんの料理の味が好きで、安楽寺の行事料理の手伝いを、キヨさんにお願いすることもありました。法要の時など、わたくしと一緒にキヨさんも、安楽寺の庫裡(くり)の厨房(ちゅうぼう)にお伺いしていたのです。
 キヨさんも、自分の料理を智恵さまが喜ぶのを知っていて、今では、時々、智恵さまの食事を作りに岩原の弧峰院にお伺いしています。岩原の、安楽寺のすぐ下の弧峰院ですよ。わたくしどもの堀金の弧峯院ではなく。まぎらわしいですね。
 キヨさんにとって、智恵さまが安楽寺から離れて独立し、岩原の弧峰院の住持になったことは嬉しいことだったのでしょうね。 
 末寺の住持に任命の知らせを聞いたのは、去年の安楽寺の盆の法要の時でしたが、智順和尚さまが、突然、その事を発表した時、キヨさんは、泣いていましたから。

 (次回、連載343に続く。
 昨日は城東公民館の文化祭でした。私も(へたくそながら)フォークダンスを踊りました。写真は展示室。プロの版画家塩入久さんの、貴重で立派な作品が沢山並んで迫力がありました。手作り木馬の展示も。可愛いでしょ)



連載341。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―3
 (前回、栄弥が一人で初めて、十四の経路を終えて家へ戻る夜道は、春宵一刻値千金の美しい夜でした。栄弥が俊量に一番に話したのは、志野が振る舞ってくれたご馳走のこと)

 父と訪ねた松沢家ので初めての夜は、ほら、雪の夜で、切干大根のおやきと長芋汁でしたでしょう? 
 次に兄やと一緒の春の宵には、うどん汁をご馳走になったそうです。牛蒡や大根や人参や里芋や菜っ葉や大豆を炊いた汁に、手打ちのうどんが入っていて、それはそれは旨かったと言っていましたよ。
 栄弥さんが初めて一人でお邪魔した時は、野沢菜のおやきとそばがき汁で、汁には葱がどっさり入っていて、身体が温まったと。
 次は、草餅と豆腐の味噌汁、とか、かしわ入りの団子汁、という具合。みたらし団子や、柏餅や、焼芋も食べさせてもらいました。野沢菜漬けと沢庵はいつもたっぷりあって、ほれ、遠慮せんでたべましょ、と言ってもらい、夏には甘酒をご馳走になったこともあるのです
 栄弥さんは、松沢家の志野さんの料理の味が大好きでした。実家の横山家のなみさんの料理の味や、わたくしども弧峯院の昼ご飯と、食べ比べることができることを楽しんでいました。そうですよ、わたくしたちだって、栄弥さんの来る日は、張り切って食事の支度をしましたもの。
 栄弥さんが月に二度松沢家を訪れたのは、七年ほどの期間でしたが、その後半は、志野さんが栄弥さんのために、特別に心を込めたご馳走を用意してくれたそうです。その味が心に沁みて、涙を落とすこともあったとか。大妻での栄弥さんは、泣き虫でした。

 (写真は、昨日の市民タイムス。この欄にもよく登場する写真集のこと)

連載340。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―2
 (前回から、青年栄弥の巻です。栄弥は、初めて一人で大妻の志野さんの家を訪ね、再び晩ご飯をご馳走になりました)

 松沢家の囲炉裏端で温かい時間を過ごし、おいとまをして外に出ると、空には無数の星が輝いていました。明日は新月という夜、北へ長く続く山脈の上で、満天の星明かりが、降るように平らを照らしています。
 これから、小田多井まで、二里の道のりを帰るのです。もし、松沢家でご馳走にならなかったら、まだ少年の栄弥さんが、大八車を引いて帰りつくことは出来なかったでしょう。身体は疲れていましたが、気持ちは感謝や感動がいっぱいでした。
 星空の下の春の夜風は、人の心を揺らし、神社や寺や屋敷林の樹々を揺らし、西山を駆けおりて梓川へと流れていきます。
 雪解け水が流れる堰の瀬音を聞きながら、春宵一刻値千金(しゅんしょう・いっこく・あたい・せんきん)の美しい夜を、栄弥さんは陶然として歩きました。自分の仕事にたいするやりがいと、誇りと、喜びを強く感じた、その最初の日でした。
 大妻経路の最後の松沢家のお話しは、栄弥さんから良く聞きましたので、北の堀金弧峯院から南の大妻は遠くても、わたくしたち弧峯院の者にとって、松沢家はとても親(ちか)しい思いでおりました。
 松沢さんでは、毎回、晩ご飯をご馳走になったそうですよ。その時、見聞きした話を、翌々日の弧峯院の昼餉で話してくれるのですから、栄弥さんが、わたくしたちと一緒に昼餉を取りながら話してくれた一番のことは、前々日の夜、大妻の松沢家の囲炉裏端で、何をご馳走になったかです。栄弥さんは、食べることが好きでしたからね。
 
 (次回、連載341に続く。
 写真は、今朝の市民タイムス1面)

連載339。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―1
 (今日から、新しい区切りの青年栄弥です。少年と青年はダブっているので、内容も少々重なりますがお付き合い下さい)

 栄弥さんが父儀十郎さんに付いて、初めて大妻の松沢家を訪れたのは、雪の降る寒い日で、若奥さんの志野さんと、家の戸口で偶然に出会い、晩ご飯をご馳走になりました。栄弥さんにとっては、白い思い出ともいうべき、大切な夕暮れでした。
 嘉永六年(1853年)の春、手習所を終えて外回りの仕事を始めた栄弥さんは、まず、兄の九八郎さんの後に付いて、訪問先の順路を教えてもらいました。
 松沢家への再訪を果たしたのはその時のことで、やっと志野さんに会えたのに、兄やの背中の陰に隠れて、ろくに挨拶もできなかったのが悔やまれました。初めは父の陰で、二度目は兄の陰での訪問でした。
 そして、若葉の頃、栄弥さんは兄から離れ一人で各家を廻り初めました。満月から新月への半月をかけて順路を巡り、その最後十四日目の夕暮れに、ついに、大妻の松沢家を訪(たず)ねることが出来たのです。
 慣れない大八車は栄弥さんには大き過ぎ、水たまりに車輪をはめては往生し、初めて一人で通る道は見知らぬ道のようで、幾度も迷子になりました。そうして行きついた最後の家が松沢家です。
 志野さんは、いつもの、飾り気のない優しさで、言いました。
「おやまあ、今日は一人かいね。ご苦労さまだいね。まだ、小ちぇえのに、たいしたむんせ。
 ひとりだったら時間もかかるずら。ほれ、もう、こんなにとっぷり陽が暮れたじ。腹がへったでしょ、一緒に晩餉にしましょ。さあ、食べて行きましょ」
 栄弥さんはね、また、涙が滲んだそうです。初めての十四日間を無事に終えた、安堵の思いもありました。

 (次回、連載340に続きます。
 写真の右左の男は兄弟です。こうして見ると似ていますね。腕のいい大工と農夫。母は幸せ!)

連載338。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥―44
 (前回、栄弥の外回りの担当は、比較的高低差の少ない、平らを南北に移動する道になりました)

 十四経路の外回りは、満月と新月の日がお休みです。月の出と月の大きさの関係で、一月に3日間の休みがあることもありました。
 栄弥さんが担当する十四の経路の一番目が、弧峯院を昼に通過す堀金経路で、最後の十四番目が、南の端まで行く大妻経路です。
 初めの弧峯院堀金経路と最後の大妻経路は、お休みを挟んで連続しており、堀金の前が大妻でしたから、自然と、栄弥さんの話題は大妻経路のことが多くなりました。
 少し前にわたくしが話した、栄弥さんが雪の日に長芋汁やおやきをご馳走になった話も、外回り仕事の途中、弧峯院で昼ご飯を食べながら、栄弥さんが話してくれたことですよ。
 この昼餉時、わたくしは、栄弥さんについて沢山の事を知りました。わたくしは聞きたがり屋でしたし、栄弥さんも良く話してくれました。弧峯院の昼餉振る舞いのお礼にと、栄弥さんも頑張ったのかも知れませんね。
 その後七年余り、毎月二度、昼時に、栄弥さんは弧峯院へ寄ってくれました。その言葉の数々を繋げるとね、次のようなお話しになるのです。栄弥さんが、外回りを始めた数え十二歳のころから、二十歳までのことですよ。
 なんと言ったらいいのでしょう。栄弥少年が青年へと変貌する、困難な時期のお話しです。志に萌え、苦闘した時期でもありました。その時期の栄弥さんを知ることができたのは、わたくしの宝でもあったのでございます。

 (今日で、第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥、が終了です。
 次は、②俊量が語る青年栄弥。苦闘の物語になります。
 写真は、二つとも今朝の市民タイムスより)


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