2022/09/03
連載322。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥―28
(前回は、もっと効率のよいカラクリを作りたいと言った栄弥と、その業を教えようと思う棟梁や大工たちの、愛情に結ばれた空間がありました)
ちょっと、余談になりますが、習う者の尊敬と教える者の愛情ががっしりと組み合っている、わたくし俊量の兄のお話しをしたくなりました。
栄弥さんが手習所へ行き始めた嘉永三年(1850年)の春まだ浅い日、わたくしは兄の働く、洗馬の熊谷先生の生々庵に行ったのでございます。
堀金から洗馬は一日がかりの道程です。十年前に松本御城下を出て堀金に来てから、初めての遠出で、同行者は青柳の若先生の一人息子、まだ数え七歳の少年でした。
松本から出向いた父が、途中の梓川大妻の渡しでわたくしたち二人を出迎え、洗馬まで案内してくれました。その夜は、父と七歳の少年と一緒に、洗馬の兄の家に泊り、久々に兄と語らい、初めて見る兄嫁やその子供の甥っ子たちに会うことが出来ました。ええ、それはそれは楽し時間でした。
なぜ、そんなことが突然、降って湧いたように起こったか、というとね、日の本の大きな転換期の出来事が起こっていたからです。その時は、そんなこと、ぜんぜん分りませんでしたが。
今でも、もがさ(疱瘡(ほうそう)・天然痘)は恐ろしい病ですが、二十年近くも前はもっと恐ろしく、人々の三~四割がくしゃみや接触で感染し、そのうちの2~3割が死亡し、助かってもあばたが顔一面に残るという、子供にとっては最も怖い病でした。
徳川将軍十六人のうち六人が、同時代の天皇十四人のうち五人が疱瘡に罹っていたといいますよ。罹って生き残った人の話ですから、将軍や天皇になる前に疱瘡で亡くなった人も多かったでしょうね。
(次回、323に続く)
(前回は、もっと効率のよいカラクリを作りたいと言った栄弥と、その業を教えようと思う棟梁や大工たちの、愛情に結ばれた空間がありました)
ちょっと、余談になりますが、習う者の尊敬と教える者の愛情ががっしりと組み合っている、わたくし俊量の兄のお話しをしたくなりました。
栄弥さんが手習所へ行き始めた嘉永三年(1850年)の春まだ浅い日、わたくしは兄の働く、洗馬の熊谷先生の生々庵に行ったのでございます。
堀金から洗馬は一日がかりの道程です。十年前に松本御城下を出て堀金に来てから、初めての遠出で、同行者は青柳の若先生の一人息子、まだ数え七歳の少年でした。
松本から出向いた父が、途中の梓川大妻の渡しでわたくしたち二人を出迎え、洗馬まで案内してくれました。その夜は、父と七歳の少年と一緒に、洗馬の兄の家に泊り、久々に兄と語らい、初めて見る兄嫁やその子供の甥っ子たちに会うことが出来ました。ええ、それはそれは楽し時間でした。
なぜ、そんなことが突然、降って湧いたように起こったか、というとね、日の本の大きな転換期の出来事が起こっていたからです。その時は、そんなこと、ぜんぜん分りませんでしたが。
今でも、もがさ(疱瘡(ほうそう)・天然痘)は恐ろしい病ですが、二十年近くも前はもっと恐ろしく、人々の三~四割がくしゃみや接触で感染し、そのうちの2~3割が死亡し、助かってもあばたが顔一面に残るという、子供にとっては最も怖い病でした。
徳川将軍十六人のうち六人が、同時代の天皇十四人のうち五人が疱瘡に罹っていたといいますよ。罹って生き残った人の話ですから、将軍や天皇になる前に疱瘡で亡くなった人も多かったでしょうね。
(次回、323に続く)
