連載323。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―①俊量が語る少年栄弥―29
 (前回は、俊量がまだ若かった嘉永3年(1850年)、青柳先生の息子を連れて、洗馬へ行った話でした)

 「疱瘡(ほうそう)済むまで我が子と思うな」と言われています。子供が疱瘡に罹かると、山に捨てに行き、免疫のある山人に介抱して貰う風習もあるようです。
 かつて洗馬に逗留した菅江真澄さんが「御嶽のもがさ(疱瘡)病み」という作品の絵と文で紹介している、と兄が教えてくれました。
 疱瘡は異国でも広く恐れられていて、今から六十年ほどまえ、当時からいうと四十年ほど前に、エゲレスのジェンナーという医者が、牛痘接種法(今の天然痘ワクチン)を確立し、予防の道を開いたそうです。
 疱瘡に罹った牛の膿を人に植えると免疫が出来て、人は疱瘡にはならないのです。その痘苗を、嘉永二年(1849年)夏に、オランダの商館医がジャワから長崎に輸入し、この国での種痘接種の道が開かれました。
 同じ年の秋、京都に除痘館が出来、適塾の緒方洪庵先生が奔走して指導し、大坂に除痘館が出来ました。江戸では佐賀藩主の娘が接種を受けただけですが、福井藩には仮種痘所が設置され、長州でも接種が始まりました。
 そして、なんと、その次が、嘉永三年(1850年)二月の信州洗馬での牛痘集団接種だったのです。痘苗が初めて長崎に着いてから、わずか半年あまりです。江戸では、蘭方医学禁止令が出てしまい、お玉が池種痘所が設置されたのは八年の後のことでした。

 (次回、連載324に続く)

< 2022年09>
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石上 扶佐子
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