2024/05/31
連載453。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―②『西国立志編』ー13
(筑摩県の様子を、三溝村の正彦が、岩原の辰致に手紙で頻繁に知らせてくれます)
正彦さんの手紙は続いて
「つい最近の二月には、市川量造さんが筑摩県あてに『下問会議』の設置を提案したそうです。筑摩県の課題を、士族、区長や戸長の豪農、僧侶、神官、などで論じようという提案で、永山参事もこれを受けてくれました」と。
キヨにも、世の中が変わっていくのが分かったさ。
正彦さんからの四月の手紙には、
「臥雲さん、がっかりしないでくださいね。
今年正月、私は岩原にお邪魔して臥雲さんの発明に驚き、これは凄いと感嘆し、スマイルズの『西国立志編』を一緒に読みましたよね。
そこには、アークライトが晩年は特許を取得して財を成したと書かれていました。さらに私は、日本の政府も、昨年明治四年に「専売略規則を定む」として、発明者を守る太政官布告をだした、とお伝えしました。
この専売特許を臥雲さんの発明した機械が取得できたら、生活も成り立つと考えていたからです。
しかし、今年の三月、その布告が廃止されてしまったのです。政府は、この制度の重要さが分からずに、
『専売許可を与える必要ない、ほめて賞をやれば十分』という考えになってしまったのです。まことに残念です」。
もちろん、タッチさもキヨも落胆したさ。顔を見合わせて「どうしずやー(どうしようもないさな)」とつぶやいたのせ。
(次回、連載454に続く。
写真は木版画家塩入久さんの作品『春霞』です。塩入さんのフェイスブックより。長野県工芸展県知事賞受賞作品で、松本の最高級ホテル「ブエナビスタ」のフロント横に掲げられているそうです。穂高等々力の風景。昔の平らは今頃が田植えだったでしょうね。こんな風景で)
(筑摩県の様子を、三溝村の正彦が、岩原の辰致に手紙で頻繁に知らせてくれます)
正彦さんの手紙は続いて
「つい最近の二月には、市川量造さんが筑摩県あてに『下問会議』の設置を提案したそうです。筑摩県の課題を、士族、区長や戸長の豪農、僧侶、神官、などで論じようという提案で、永山参事もこれを受けてくれました」と。
キヨにも、世の中が変わっていくのが分かったさ。
正彦さんからの四月の手紙には、
「臥雲さん、がっかりしないでくださいね。
今年正月、私は岩原にお邪魔して臥雲さんの発明に驚き、これは凄いと感嘆し、スマイルズの『西国立志編』を一緒に読みましたよね。
そこには、アークライトが晩年は特許を取得して財を成したと書かれていました。さらに私は、日本の政府も、昨年明治四年に「専売略規則を定む」として、発明者を守る太政官布告をだした、とお伝えしました。
この専売特許を臥雲さんの発明した機械が取得できたら、生活も成り立つと考えていたからです。
しかし、今年の三月、その布告が廃止されてしまったのです。政府は、この制度の重要さが分からずに、
『専売許可を与える必要ない、ほめて賞をやれば十分』という考えになってしまったのです。まことに残念です」。
もちろん、タッチさもキヨも落胆したさ。顔を見合わせて「どうしずやー(どうしようもないさな)」とつぶやいたのせ。
(次回、連載454に続く。
写真は木版画家塩入久さんの作品『春霞』です。塩入さんのフェイスブックより。長野県工芸展県知事賞受賞作品で、松本の最高級ホテル「ブエナビスタ」のフロント横に掲げられているそうです。穂高等々力の風景。昔の平らは今頃が田植えだったでしょうね。こんな風景で)
2024/05/29
連載452。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―②『西国立志編』ー12
(明治5年前後のこの頃、スマイルズの『自助論』、ミルの『自由論(自由の理)』、福沢諭吉の『学問のススメ』などが立て続けに出版され、若者の心を燃えたたせました。三溝村の庄屋の息子武居正彦もその一人でした。語りはキヨ)
明治四年七月の廃藩置県で、知藩事だった元藩主戸田さまが東京へ引っ越したあと、松本、高島、高遠、飯田、伊那、飛騨高山、木曽などが一緒になって、11月に筑摩県ができたずら。その時、県庁は松本に置かれて、参事に永山盛輝というお人が来ただいね。
薩摩藩士だった永山さまは、松本に来る前は伊那県の参事だったで、平田派の中心地伊那で平田派のお仲間と、全国に先駆けて新政府の国作りをしようと意気込んでいたさ。
なので、正彦さんの叔父の倉澤清也さんとも知り合いで、正彦さんは、あたらしい筑摩県と永山参事のことを熱心に手紙に書いて、タッチさに知らせてくれたのせ。郵便もはじまったでね。
三溝村の武居正彦さんからの手紙の中で、タッチさが特別に面白がっていたのはせ、松本町横田の二十九歳の戸長市川量造という人の消息だじ。
明治五年春の初め、正彦さんはこんな手紙をくれたのせ。
「市川量造さんが深志のお城の天守に登ったそうです。お城は政府の大蔵省が競売にだしたと聞いています。量造さんは臥雲さんより二つ年下で、十九の時に蚕種紙(蚕卵紙)を売りに横浜に行き、外国に触れて感じるところがあったようで、そのまま水戸に行き、弘道館で二年も勉強してきました」
その手紙を読んで、タッチさはこう言ったじ。
「おやおや、あの大きなお城もなくなるだか。安楽寺もなくなったでなあ、しかたがないだかやあ。寂しいことだじ。
それにしても、量造さんというのは、愉快なお人だいね。最近まで、お城へ行けたのは武士だけだったじ。普通のもんは、大手橋より先は入れなかったずら」
(次回、連載453に続く。
写真は2年前の今頃の、NHKニュース画面より。夕焼けの飛騨山脈(北アルプス)です。辰致の生家のある小多田井辺りからの眺め)
(明治5年前後のこの頃、スマイルズの『自助論』、ミルの『自由論(自由の理)』、福沢諭吉の『学問のススメ』などが立て続けに出版され、若者の心を燃えたたせました。三溝村の庄屋の息子武居正彦もその一人でした。語りはキヨ)
明治四年七月の廃藩置県で、知藩事だった元藩主戸田さまが東京へ引っ越したあと、松本、高島、高遠、飯田、伊那、飛騨高山、木曽などが一緒になって、11月に筑摩県ができたずら。その時、県庁は松本に置かれて、参事に永山盛輝というお人が来ただいね。
薩摩藩士だった永山さまは、松本に来る前は伊那県の参事だったで、平田派の中心地伊那で平田派のお仲間と、全国に先駆けて新政府の国作りをしようと意気込んでいたさ。
なので、正彦さんの叔父の倉澤清也さんとも知り合いで、正彦さんは、あたらしい筑摩県と永山参事のことを熱心に手紙に書いて、タッチさに知らせてくれたのせ。郵便もはじまったでね。
三溝村の武居正彦さんからの手紙の中で、タッチさが特別に面白がっていたのはせ、松本町横田の二十九歳の戸長市川量造という人の消息だじ。
明治五年春の初め、正彦さんはこんな手紙をくれたのせ。
「市川量造さんが深志のお城の天守に登ったそうです。お城は政府の大蔵省が競売にだしたと聞いています。量造さんは臥雲さんより二つ年下で、十九の時に蚕種紙(蚕卵紙)を売りに横浜に行き、外国に触れて感じるところがあったようで、そのまま水戸に行き、弘道館で二年も勉強してきました」
その手紙を読んで、タッチさはこう言ったじ。
「おやおや、あの大きなお城もなくなるだか。安楽寺もなくなったでなあ、しかたがないだかやあ。寂しいことだじ。
それにしても、量造さんというのは、愉快なお人だいね。最近まで、お城へ行けたのは武士だけだったじ。普通のもんは、大手橋より先は入れなかったずら」
(次回、連載453に続く。
写真は2年前の今頃の、NHKニュース画面より。夕焼けの飛騨山脈(北アルプス)です。辰致の生家のある小多田井辺りからの眺め)
2024/05/27
連載451。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―②『西国立志編』ー11
(辰致は西洋の本の中にあった、機械の名前を聞いただけで、それはどんな機械だろうと、工夫して作ってしまうのでした。語りはキヨ)
サミュエル・スマイルズの『自助論』を翻訳し、日本で『西国立志編』として出版した中村正直さんは、翌明治五年の二月に、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を翻訳して、『自由之理』という本を出版しただいね。
正彦さんは、この本も瞬く間に読破したそうで、タッチさ宛てに、その感激ぶりを幾度も手紙で知らせてくれたのせ。東京へ行って中村正直先生に会いたい、と言っていたとさ。
ちょうど同じころ、明治五年の二月、福沢諭吉という人が『学問のススメ』を出したのせ。正彦さんにとっては、三連発だったかもしれねえ。
「天は自ら助くる者を助く」の『西国立志編』と、人の自由を重んじる『自由之理』と、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の『学問のススメ』だもの。
正彦さんは、タッチさへの手紙で、東京へ行って西洋の勉強をしたい、と言ってたそうだじ。正彦さんらしいずら。
正彦さんは、御一新の前から、緒方洪庵先生の適塾や、適塾で学んだ福沢諭吉が江戸で開いた蘭学塾の話をしていたでね。今は慶応義塾となっている福沢先生の塾へ、入学したいと書いてきたんだと。
でもせ、前年の明治四年七月に廃藩置県が行われ、松本藩が松本県に、十一月には筑摩県になったずら。それで庄屋は忙しかったじ。明治五年には、庄屋・名主を戸長と呼ぶことになって、さらに大変になったさ。
戸長は、前の庄屋・名主の仕事はそのままやって、その上に、土地、住民に係わること一切を引き受けることになっただもの。戸籍の管理とかだじ。後には戸長役場というのができたさ。
廃止が決まった村々の庄屋の中で、戸長をやってもいいという家は少なかったのせ。大変なのが目に見えているだもの。
国や県からの命令は来るし、災害だって起こるし、村の修理もあるし、村の衆や庄屋衆もまとめていかなならんし。でも、武居家は平田学の素養があったから、世のため人のための仕事なら引き受けにゃならん、として、戸長になっただと。だから、長男の正彦さんは東京どこではなかったじ。
(次回、連載452に続く。
写真は、ぬいぐるみ作家松村阿音夢さんの作品。「虹の妖精猫さん」と「チョコミントの妖精さん」。彼女のフェイスブックより)
(辰致は西洋の本の中にあった、機械の名前を聞いただけで、それはどんな機械だろうと、工夫して作ってしまうのでした。語りはキヨ)
サミュエル・スマイルズの『自助論』を翻訳し、日本で『西国立志編』として出版した中村正直さんは、翌明治五年の二月に、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を翻訳して、『自由之理』という本を出版しただいね。
正彦さんは、この本も瞬く間に読破したそうで、タッチさ宛てに、その感激ぶりを幾度も手紙で知らせてくれたのせ。東京へ行って中村正直先生に会いたい、と言っていたとさ。
ちょうど同じころ、明治五年の二月、福沢諭吉という人が『学問のススメ』を出したのせ。正彦さんにとっては、三連発だったかもしれねえ。
「天は自ら助くる者を助く」の『西国立志編』と、人の自由を重んじる『自由之理』と、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の『学問のススメ』だもの。
正彦さんは、タッチさへの手紙で、東京へ行って西洋の勉強をしたい、と言ってたそうだじ。正彦さんらしいずら。
正彦さんは、御一新の前から、緒方洪庵先生の適塾や、適塾で学んだ福沢諭吉が江戸で開いた蘭学塾の話をしていたでね。今は慶応義塾となっている福沢先生の塾へ、入学したいと書いてきたんだと。
でもせ、前年の明治四年七月に廃藩置県が行われ、松本藩が松本県に、十一月には筑摩県になったずら。それで庄屋は忙しかったじ。明治五年には、庄屋・名主を戸長と呼ぶことになって、さらに大変になったさ。
戸長は、前の庄屋・名主の仕事はそのままやって、その上に、土地、住民に係わること一切を引き受けることになっただもの。戸籍の管理とかだじ。後には戸長役場というのができたさ。
廃止が決まった村々の庄屋の中で、戸長をやってもいいという家は少なかったのせ。大変なのが目に見えているだもの。
国や県からの命令は来るし、災害だって起こるし、村の修理もあるし、村の衆や庄屋衆もまとめていかなならんし。でも、武居家は平田学の素養があったから、世のため人のための仕事なら引き受けにゃならん、として、戸長になっただと。だから、長男の正彦さんは東京どこではなかったじ。
(次回、連載452に続く。
写真は、ぬいぐるみ作家松村阿音夢さんの作品。「虹の妖精猫さん」と「チョコミントの妖精さん」。彼女のフェイスブックより)
2024/05/25
連載450。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生ー②『西国立志編』ー10
(正彦は、西洋の特許制度について説明し、その朗読が終ると、辰致は自分のやるべきことの道筋が見えたと喜びます。ボロをまとっていた辰致に、正彦は持参した挨拶用の着物を差し出しました。語りはキヨ)
タッチさは、嬉しさを隠し切れずに本のお礼を言っただが、正装の着物一式は受け取れない、と言ったじ。そこで、キヨが口を出しただ。
「正彦さん、ありがとうございます。タッチさはそう言うとりますが、これからいろいろなことがありますら、ありがたくいただきます」
もし、タッチさの嫁であるなら、こう言うずら。これからは、キヨがタッチさを支えるだもの。それに、アークライトだって、服さもらったでないか。
タッチさはうつむいておったが、正彦さんはにっこり笑ってくれたじ。
正彦さんが帰ったあと、タッチさは、その本をむさぼり読んでいたさ。何度も読み返して、すっかり暗記していた。
あの本の中には、西洋の誰々が何々を発明した、ということが書いてあっただね。人を紹介する本だったから、発明の内容は書いてなくて、ただ、ウイリアム・リーの靴下編み機とか、ヒースコートのレース編み機とか、ジャカールの漁業用編み機とか、ヘイルマンの衣料梳治機とか、ワットの測量機とか、誰それの計算機、とか、機械の名前だけが載っていたのせ。
そしたら、タッチさは、それはどんな機械なんだろうと想像して、そして、いくつもの新しい機械をこさえてしまっただ。織機、測量機、計算機などだじ。頭が発明向きにできているだね。
(次回、連載451に続く。
写真は、やまびこ道路沿い、近くの家のバラ)
(正彦は、西洋の特許制度について説明し、その朗読が終ると、辰致は自分のやるべきことの道筋が見えたと喜びます。ボロをまとっていた辰致に、正彦は持参した挨拶用の着物を差し出しました。語りはキヨ)
タッチさは、嬉しさを隠し切れずに本のお礼を言っただが、正装の着物一式は受け取れない、と言ったじ。そこで、キヨが口を出しただ。
「正彦さん、ありがとうございます。タッチさはそう言うとりますが、これからいろいろなことがありますら、ありがたくいただきます」
もし、タッチさの嫁であるなら、こう言うずら。これからは、キヨがタッチさを支えるだもの。それに、アークライトだって、服さもらったでないか。
タッチさはうつむいておったが、正彦さんはにっこり笑ってくれたじ。
正彦さんが帰ったあと、タッチさは、その本をむさぼり読んでいたさ。何度も読み返して、すっかり暗記していた。
あの本の中には、西洋の誰々が何々を発明した、ということが書いてあっただね。人を紹介する本だったから、発明の内容は書いてなくて、ただ、ウイリアム・リーの靴下編み機とか、ヒースコートのレース編み機とか、ジャカールの漁業用編み機とか、ヘイルマンの衣料梳治機とか、ワットの測量機とか、誰それの計算機、とか、機械の名前だけが載っていたのせ。
そしたら、タッチさは、それはどんな機械なんだろうと想像して、そして、いくつもの新しい機械をこさえてしまっただ。織機、測量機、計算機などだじ。頭が発明向きにできているだね。
(次回、連載451に続く。
写真は、やまびこ道路沿い、近くの家のバラ)
2024/05/23
連載449。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生ー②『西国立志編』ー9
(正彦に、スマイルズの『西国立志編』を読んでもらった辰致の顔は輝いていました)
顔を紅潮させたタッチさが、正彦さんに深々と頭を下げたじ。
「正彦さん、ありがとうございました。誠に、勇気が出ました。力をもらいました。
海の向こうに、私と同じ苦労をしている人がいたなんて、ほんとにうれしいです。やるべきことの道筋が見えました。私も自分の機械の完成まで、こころを尽くします」
正彦さんも感無量の面持ちだった。そしてつけ加えたのせ。
「ね、臥雲さん、ここに書かれているように、西洋には『特許』というものがあって、アークライトもワットもその制度のおかげで、機械による利益が保全されたのです。
その制度は昨年の明治四年、日本でも『専売略規則』として公布されました。運用はまだ未熟ですが、日本でもその道が開けつつありあます。機械の発明で、生計を立てることができる時代がくるのです。
西洋の産業革命は、綿から始まったのです。臥雲さん、あなたから日本の産業革命が始まると、私は確信します。どうか、やり遂げてください。微力ながら、私もお役に立ちたいと思います」
正彦さんはそう言うと、今読んでくれた『西国立志編・原名自助論』第二冊という本をタッチさに手渡した。
「これは、臥雲さんに差し上げようと思って、私が写本したものです。どうぞ受け取ってください。全部で十三編あるうちの二編と三編が入っています。他の部分はまた機会を見て読んでいただきましょう」
それから、抱えてきた風呂敷包みを、前に滑らすように差し出して言いなすった。
「これは今朝、妻が用意してくれた着物一式です。山口家で挨拶の折に着替えるようにと。でも、独り身の時は正月でも着替えずに挨拶をしていたのですから、なければないでよいものです。どうぞ、明日の村の正月の会に着て行ってください」
(次回、連載450に続く。
写真は、木版画家、塩入久さんの作品。「水鏡」。塩入さんのフェイスブックより。
先の日曜日、フォークダンスの大会があり500人が一緒に踊った安曇野体育館は、こんな風景の中にありました。)
(正彦に、スマイルズの『西国立志編』を読んでもらった辰致の顔は輝いていました)
顔を紅潮させたタッチさが、正彦さんに深々と頭を下げたじ。
「正彦さん、ありがとうございました。誠に、勇気が出ました。力をもらいました。
海の向こうに、私と同じ苦労をしている人がいたなんて、ほんとにうれしいです。やるべきことの道筋が見えました。私も自分の機械の完成まで、こころを尽くします」
正彦さんも感無量の面持ちだった。そしてつけ加えたのせ。
「ね、臥雲さん、ここに書かれているように、西洋には『特許』というものがあって、アークライトもワットもその制度のおかげで、機械による利益が保全されたのです。
その制度は昨年の明治四年、日本でも『専売略規則』として公布されました。運用はまだ未熟ですが、日本でもその道が開けつつありあます。機械の発明で、生計を立てることができる時代がくるのです。
西洋の産業革命は、綿から始まったのです。臥雲さん、あなたから日本の産業革命が始まると、私は確信します。どうか、やり遂げてください。微力ながら、私もお役に立ちたいと思います」
正彦さんはそう言うと、今読んでくれた『西国立志編・原名自助論』第二冊という本をタッチさに手渡した。
「これは、臥雲さんに差し上げようと思って、私が写本したものです。どうぞ受け取ってください。全部で十三編あるうちの二編と三編が入っています。他の部分はまた機会を見て読んでいただきましょう」
それから、抱えてきた風呂敷包みを、前に滑らすように差し出して言いなすった。
「これは今朝、妻が用意してくれた着物一式です。山口家で挨拶の折に着替えるようにと。でも、独り身の時は正月でも着替えずに挨拶をしていたのですから、なければないでよいものです。どうぞ、明日の村の正月の会に着て行ってください」
(次回、連載450に続く。
写真は、木版画家、塩入久さんの作品。「水鏡」。塩入さんのフェイスブックより。
先の日曜日、フォークダンスの大会があり500人が一緒に踊った安曇野体育館は、こんな風景の中にありました。)
2024/05/21
連載448。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生ー②『西国立志編』ー8
(正彦が、辰致とそっくりだと驚いたアークライトという人を紹をするために『西国立志編』という本を朗読しています。正彦の朗読の続き)
(アークライトは)1769年にはついに特許を取得し、その機械による利益が保全されることになりました。この年はワットが蒸気機関の特許を取得した年でもありました。
アークライトは最初、ノッティンガムに紡績工場を造り、馬の力でその機械を動かしました。後にダービーシャーに建設した工場は、非常に大規模なもので、水車を使って機械を動かしました。紡績機械を水機と呼ぶのはこのためなのです。(中略)
アークライトの発明した機械は、大まかな部分は完成していましたが、細かな点においてはまだまだ不十分なものでした。 そのため、アークライトは長い年月を費やし、努力に努力を重ね、改良に改良を加え、長い苦労に耐え、多くの財産を使い、とうとうこれ以上ないほどに便利を極めた究極の紡績機械を完成させたのでした」
正彦さんの朗読が終わった時、タッチさの顔は、ほんに輝いていたさ。正彦さんに言われるまでもなく、自分は日本のアークライトだと思ったずら。
キヨでさえ、なんて、そっくりなんだ、と思ったもの。水車も出てきたし。
ぼろの服しかなくて、選挙に行けなかった、というところまで、そっくりでねえか。明日は村の正月の寄り合いだども、タッチさは、「キモノがないから、行かねえ」なんて言ってたもの。
(次回、連載449に続く。
写真は今日の城東地区ひろば、ロマン茶房の100円メニューです。たてていただいた抹茶と草餅と紫蘇ジュース寒天、ミントも柔らかくておいしかった❣)
(正彦が、辰致とそっくりだと驚いたアークライトという人を紹をするために『西国立志編』という本を朗読しています。正彦の朗読の続き)
(アークライトは)1769年にはついに特許を取得し、その機械による利益が保全されることになりました。この年はワットが蒸気機関の特許を取得した年でもありました。
アークライトは最初、ノッティンガムに紡績工場を造り、馬の力でその機械を動かしました。後にダービーシャーに建設した工場は、非常に大規模なもので、水車を使って機械を動かしました。紡績機械を水機と呼ぶのはこのためなのです。(中略)
アークライトの発明した機械は、大まかな部分は完成していましたが、細かな点においてはまだまだ不十分なものでした。 そのため、アークライトは長い年月を費やし、努力に努力を重ね、改良に改良を加え、長い苦労に耐え、多くの財産を使い、とうとうこれ以上ないほどに便利を極めた究極の紡績機械を完成させたのでした」
正彦さんの朗読が終わった時、タッチさの顔は、ほんに輝いていたさ。正彦さんに言われるまでもなく、自分は日本のアークライトだと思ったずら。
キヨでさえ、なんて、そっくりなんだ、と思ったもの。水車も出てきたし。
ぼろの服しかなくて、選挙に行けなかった、というところまで、そっくりでねえか。明日は村の正月の寄り合いだども、タッチさは、「キモノがないから、行かねえ」なんて言ってたもの。
(次回、連載449に続く。
写真は今日の城東地区ひろば、ロマン茶房の100円メニューです。たてていただいた抹茶と草餅と紫蘇ジュース寒天、ミントも柔らかくておいしかった❣)
2024/05/19
連載447。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生ー②『西国立志編』ー7
(明治5年正月、辰致の機械の説明を聞いた正彦は、その話が、手に携えていた本の内容とそっくりなのに驚き「ここに日本のアークライトがいる!」と叫びました)
キヨがこっそりタッチさを見ると、タッチさはうつむいて困っているような顔をしていただいね。それでキヨが代わりに正彦さんに聞いたのせ。
「アークライトというのは、どんな人なのさ」
正彦さんは本をめくって言った。
「『西国立志編』の第二編の一部分を、かいつまんで読みますね。
『(ワットが蒸気縮密機器を発明した後、イギリスで)最初に発展したのが綿糸を紡ぐ紡績業でした。
紡績業の父と呼ばれるのが、リチャード・アークライトです。
アークライトは思考力と創造力に優れているだけでなく、それらを実現させるための熱意と智恵にずば抜けて優れていた人物でもありました。(中略)
しかし、紡績機械を作ることはたやすいことではありません。苦労に苦労を重ね、本業(理髪店・かつら店)そっちのけで紡績機械の製作にのめり込んでいったので、とうとう貯金も使い果たし、極貧状態に陥りました。(中略)
ともあれ、アークライトは、いったん発明の糸口をつかむと、工夫に工夫を重ね、実験に次ぐ実験を経て、ようやく自動紡績機械を完成させたのです。(中略)
こういう話があります。アークライトは、プレストンの市民であったため、市の評議員を選出する会議に出席しなければなりませんでした。しかし、彼の衣類はぼろぼろで新しい服を買うお金がありません。アークライトは会議に出ることを嫌がりました。そこで彼の知人がお金を出し合ってアークライトが会議に着ていく服を買い与えたのです。アークライトはそのくらい貧困だったのです(中略)。
(次回、連載448に続く。
昨日のフォークダンス大会は500人以上が一つにつながり同じステップを踏むという楽しい場面がありました。(どうして全員(-二人)が両手を繋いでつながれたのか?・クイズです。残りの二人は片手だけ繋いでいました)。
フォークダンス演奏のプロによる生の伴奏は、リズムのテンポが自由自在に変化して、とても素適です。その超楽しい大会の記事が今日の信毎21ページに載っていました)
(明治5年正月、辰致の機械の説明を聞いた正彦は、その話が、手に携えていた本の内容とそっくりなのに驚き「ここに日本のアークライトがいる!」と叫びました)
キヨがこっそりタッチさを見ると、タッチさはうつむいて困っているような顔をしていただいね。それでキヨが代わりに正彦さんに聞いたのせ。
「アークライトというのは、どんな人なのさ」
正彦さんは本をめくって言った。
「『西国立志編』の第二編の一部分を、かいつまんで読みますね。
『(ワットが蒸気縮密機器を発明した後、イギリスで)最初に発展したのが綿糸を紡ぐ紡績業でした。
紡績業の父と呼ばれるのが、リチャード・アークライトです。
アークライトは思考力と創造力に優れているだけでなく、それらを実現させるための熱意と智恵にずば抜けて優れていた人物でもありました。(中略)
しかし、紡績機械を作ることはたやすいことではありません。苦労に苦労を重ね、本業(理髪店・かつら店)そっちのけで紡績機械の製作にのめり込んでいったので、とうとう貯金も使い果たし、極貧状態に陥りました。(中略)
ともあれ、アークライトは、いったん発明の糸口をつかむと、工夫に工夫を重ね、実験に次ぐ実験を経て、ようやく自動紡績機械を完成させたのです。(中略)
こういう話があります。アークライトは、プレストンの市民であったため、市の評議員を選出する会議に出席しなければなりませんでした。しかし、彼の衣類はぼろぼろで新しい服を買うお金がありません。アークライトは会議に出ることを嫌がりました。そこで彼の知人がお金を出し合ってアークライトが会議に着ていく服を買い与えたのです。アークライトはそのくらい貧困だったのです(中略)。
(次回、連載448に続く。
昨日のフォークダンス大会は500人以上が一つにつながり同じステップを踏むという楽しい場面がありました。(どうして全員(-二人)が両手を繋いでつながれたのか?・クイズです。残りの二人は片手だけ繋いでいました)。
フォークダンス演奏のプロによる生の伴奏は、リズムのテンポが自由自在に変化して、とても素適です。その超楽しい大会の記事が今日の信毎21ページに載っていました)
2024/05/17
連載446。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生ー②『西国立志編』ー6
(前回は、発明した機械の説明を、辰致が正彦に懸命に語りました。一緒に喜んでほしくて)
正彦さんは、新しい機械を見て、すぐに理解できたようでした。タッチさの両肩を掴んで揺らしながら
「おめでとうございます。すごいですね。まことにおめでとうごさいます」と言ったさ。跳び上がらんばかりだった。
タッチさが、機械小屋の横を流れる小川に作った水車を指さしながら
「水車で回すことも考えているのす」と言った時、正彦さんは、今度は本当に跳び上がって驚き
「なんと、なんと、臥雲さん」と言って、絶句したのせ。
ただならぬ雰囲気を感じて、キヨは言ったさ。
「機械小屋では寒いから、家の炉端へ行って、熱い湯でも飲みまっしょ」
囲炉裏を囲んで座り、湯を飲んでお菜(野沢菜)漬けを摘まむと、正彦さんがおもむろに切り出しただ。正座をし襟を正して。
「臥雲さん、私は今日、あなたに是非読んでいただきたい本があり、それを持ってまいりました。昨年の七月に出版された本です。
私は平田学の影響で西洋の勉強に励んおりましたので、この本のこともいち早く知り、出版前から松本の高美や書店さんに頼んでおき、出るとすぐに読むことができました。
『西国立志編』という本です。中村正直先生が翻訳されました。幕末にイギリスへ行った留学生の監督として西洋を廻り、明治元年に帰国された方です。
原版は『自助論』という本で、イギリスのサミュエル・スマイルズという人が14年前に書き、イギリスでも良く売れています。多くの国で翻訳もされています。大きな仕事を成した、西洋の興味深い沢山の人々のことを書いています。
その、第二編「発明・創造により国家を富ませた偉人たち」の中に、アークライトという人のことが書かれているのです。私は、久しぶりにあなたにお会いして、衝撃を受けました。なんと、ここに、日本のアークライトがいるではないか!、と」
(次回、連載447に続く。
明日の土曜日は、安曇野体育館で、9時45分から夕方まで、フォークダンスの長野県60周年記念大会があります。写真は一昨日の水曜日の例会(参加者16名)のフリータイム)
(前回は、発明した機械の説明を、辰致が正彦に懸命に語りました。一緒に喜んでほしくて)
正彦さんは、新しい機械を見て、すぐに理解できたようでした。タッチさの両肩を掴んで揺らしながら
「おめでとうございます。すごいですね。まことにおめでとうごさいます」と言ったさ。跳び上がらんばかりだった。
タッチさが、機械小屋の横を流れる小川に作った水車を指さしながら
「水車で回すことも考えているのす」と言った時、正彦さんは、今度は本当に跳び上がって驚き
「なんと、なんと、臥雲さん」と言って、絶句したのせ。
ただならぬ雰囲気を感じて、キヨは言ったさ。
「機械小屋では寒いから、家の炉端へ行って、熱い湯でも飲みまっしょ」
囲炉裏を囲んで座り、湯を飲んでお菜(野沢菜)漬けを摘まむと、正彦さんがおもむろに切り出しただ。正座をし襟を正して。
「臥雲さん、私は今日、あなたに是非読んでいただきたい本があり、それを持ってまいりました。昨年の七月に出版された本です。
私は平田学の影響で西洋の勉強に励んおりましたので、この本のこともいち早く知り、出版前から松本の高美や書店さんに頼んでおき、出るとすぐに読むことができました。
『西国立志編』という本です。中村正直先生が翻訳されました。幕末にイギリスへ行った留学生の監督として西洋を廻り、明治元年に帰国された方です。
原版は『自助論』という本で、イギリスのサミュエル・スマイルズという人が14年前に書き、イギリスでも良く売れています。多くの国で翻訳もされています。大きな仕事を成した、西洋の興味深い沢山の人々のことを書いています。
その、第二編「発明・創造により国家を富ませた偉人たち」の中に、アークライトという人のことが書かれているのです。私は、久しぶりにあなたにお会いして、衝撃を受けました。なんと、ここに、日本のアークライトがいるではないか!、と」
(次回、連載447に続く。
明日の土曜日は、安曇野体育館で、9時45分から夕方まで、フォークダンスの長野県60周年記念大会があります。写真は一昨日の水曜日の例会(参加者16名)のフリータイム)
2024/05/15
連載445。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生ー②『西国立志編』ー5
(辰致は10年の成果を、前のめりで正彦に語っています。当時はその独創的な自動制御の価値を誰も知りませんでした。これは西洋でも誰もなしえなかった世界的発明です。前回から辰致が正彦に説明をしている続きです)
正彦さん、いいですか、自動機とは、こういうことです。
綿を詰めた筒を縦に吊るし、筒の先端から綿をつまんで七分(2センチ)程引き出します。
筒は底が回転軸と連結しているので高速で回転しており、七分引き出した綿はあっという間に捩(よじ)れて糸になります。
糸は上から巻き取られますから、引き出した部分が糸になると、筒は上に引っ張られて持ち上がります。
ある程度筒が持ち上がると、筒を回転していた底の軸が外れて、回転が止まります。
筒が七分(2センチ)持ち上がると、それ以上は上がらない「つっかえ」(ストッパー)を作っておくと、筒の上昇は七分(2センチ)で止ます。筒の底を天秤(シーソー)のような仕掛けで上に押し上げていた仕掛けが、「つっかえ」にあたり、それ以上筒を上に持ち上げなくなるのです。すると筒を押し上げる力が働かず、筒は急に重くなります。
その重さで綿が七分ほど引き出され、上に引っ張られていた筒がストンと下に落ち、筒の底と回転軸がつながり、再び回転が始まるのです。
筒の底と回転軸は、双方に取り付けた鉄片がかみ合うことで連結するので、かみ合う時の音がガラガラと響いているのですよ。
これが、私の考えた自動制御の装置です。それが、今、動きはじめたのです。
これです。見てください」
タッチさは、嬉しそうだったじ。
よほど、誰かに言いたかっただね。いや、正彦さんなら分かってくれると思って、言いたかっただね。
一緒に喜んでほしかっただいね。
(次回、連載446に続く。
写真はぬいぐるみ作家松村阿音夢さんの作品。綿毛の国の妖精猫さんと、森の妖精猫さんです。彼女のフェイスブックより)
(辰致は10年の成果を、前のめりで正彦に語っています。当時はその独創的な自動制御の価値を誰も知りませんでした。これは西洋でも誰もなしえなかった世界的発明です。前回から辰致が正彦に説明をしている続きです)
正彦さん、いいですか、自動機とは、こういうことです。
綿を詰めた筒を縦に吊るし、筒の先端から綿をつまんで七分(2センチ)程引き出します。
筒は底が回転軸と連結しているので高速で回転しており、七分引き出した綿はあっという間に捩(よじ)れて糸になります。
糸は上から巻き取られますから、引き出した部分が糸になると、筒は上に引っ張られて持ち上がります。
ある程度筒が持ち上がると、筒を回転していた底の軸が外れて、回転が止まります。
筒が七分(2センチ)持ち上がると、それ以上は上がらない「つっかえ」(ストッパー)を作っておくと、筒の上昇は七分(2センチ)で止ます。筒の底を天秤(シーソー)のような仕掛けで上に押し上げていた仕掛けが、「つっかえ」にあたり、それ以上筒を上に持ち上げなくなるのです。すると筒を押し上げる力が働かず、筒は急に重くなります。
その重さで綿が七分ほど引き出され、上に引っ張られていた筒がストンと下に落ち、筒の底と回転軸がつながり、再び回転が始まるのです。
筒の底と回転軸は、双方に取り付けた鉄片がかみ合うことで連結するので、かみ合う時の音がガラガラと響いているのですよ。
これが、私の考えた自動制御の装置です。それが、今、動きはじめたのです。
これです。見てください」
タッチさは、嬉しそうだったじ。
よほど、誰かに言いたかっただね。いや、正彦さんなら分かってくれると思って、言いたかっただね。
一緒に喜んでほしかっただいね。
(次回、連載446に続く。
写真はぬいぐるみ作家松村阿音夢さんの作品。綿毛の国の妖精猫さんと、森の妖精猫さんです。彼女のフェイスブックより)
2024/05/13
連載444。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生ー②『西国立志編』ー4
(一年半ぶりに辰致を訪ねた正彦の、火急の用を押しのけて、辰致は今しがた完成したばかりの、新発明の糸紡機の説明をはじめます)
タッチさの顔は輝いていたさ。いつものお落ち着きもどこへやら、で、前のめりに話し始めたじ。
「すみません。言わずにはおられないので。正彦さん、いいですか。
普通の綿糸紡ぎは手動です。手動で綿を糸にするには、綿の塊を左手に持ち、右手で綿を少し摘まんで引き出します。
綿の繊維は一寸(3センチ)強から二寸(6センチ)の長さですので、七分(2センチ)位引きだしても、引き出した部分は切れません。
そこで、引き出した部分を捩(よじ)り、糸にします。十分捩れたら、その部分を巻き取ります。
そして、さらに七分引き出し、捩って糸にし巻き取ります。これを繰り返すのが、今までの手紡績です。
私は、自動で糸を引き出して撚(よ)り、自動で糸を巻き取る糸紡機を作りたかったのです。つまり、こういうことです。
私が作った機械は、綿を詰めた筒を縦に吊します。縦がミソです。
筒の重さを利用して、糸の張力を調整する方法を思いついたのです。
『綿が筒に詰まっている時、筒は重い。筒の綿がよられて巻き取られ綿が筒に少ない時、筒は軽い。筒が重ければ下がり、筒が軽くなると筒は引き上げられる。筒の上下運動は、筒が自らの重さで自動的に行う』のです。
これが大発見でした。これで前へすすめると。まだ、安楽寺にいたころですよ。弧峰院に移ってから、試作を重ねていました。
糸を同じ太さで巻き取りたいので、同じ張力にするために、筒の底に天秤を取り付け、筒が重い時は天秤で筒の底を押し上げる仕組みにしたのです。
(次回、連載445に続く。
写真は、昨日の母の日、二人の母(輝ちゃんと私)のために、おぐらやま農場の農場主が、由緒ある蕎麦屋にて、お祝いをしてくれました。孫たちも元気)
(一年半ぶりに辰致を訪ねた正彦の、火急の用を押しのけて、辰致は今しがた完成したばかりの、新発明の糸紡機の説明をはじめます)
タッチさの顔は輝いていたさ。いつものお落ち着きもどこへやら、で、前のめりに話し始めたじ。
「すみません。言わずにはおられないので。正彦さん、いいですか。
普通の綿糸紡ぎは手動です。手動で綿を糸にするには、綿の塊を左手に持ち、右手で綿を少し摘まんで引き出します。
綿の繊維は一寸(3センチ)強から二寸(6センチ)の長さですので、七分(2センチ)位引きだしても、引き出した部分は切れません。
そこで、引き出した部分を捩(よじ)り、糸にします。十分捩れたら、その部分を巻き取ります。
そして、さらに七分引き出し、捩って糸にし巻き取ります。これを繰り返すのが、今までの手紡績です。
私は、自動で糸を引き出して撚(よ)り、自動で糸を巻き取る糸紡機を作りたかったのです。つまり、こういうことです。
私が作った機械は、綿を詰めた筒を縦に吊します。縦がミソです。
筒の重さを利用して、糸の張力を調整する方法を思いついたのです。
『綿が筒に詰まっている時、筒は重い。筒の綿がよられて巻き取られ綿が筒に少ない時、筒は軽い。筒が重ければ下がり、筒が軽くなると筒は引き上げられる。筒の上下運動は、筒が自らの重さで自動的に行う』のです。
これが大発見でした。これで前へすすめると。まだ、安楽寺にいたころですよ。弧峰院に移ってから、試作を重ねていました。
糸を同じ太さで巻き取りたいので、同じ張力にするために、筒の底に天秤を取り付け、筒が重い時は天秤で筒の底を押し上げる仕組みにしたのです。
(次回、連載445に続く。
写真は、昨日の母の日、二人の母(輝ちゃんと私)のために、おぐらやま農場の農場主が、由緒ある蕎麦屋にて、お祝いをしてくれました。孫たちも元気)