連載407。小説『山を仰ぐ』第6章・幕末から維新、廃仏毀釈へ(文久元年1861年~明治4年・1871年)ー②明治二年(1869年)。正彦とキヨが俊量を訪ねるー9 
 
 (昨年の6月29日以来ご無沙汰し、失礼をしておりました連載『山を仰ぐ』の続きです。堀金の俊量を訪ねた17歳の武居正彦が、自身の願いと憧れを込めて、幕末に世界を見てきた人たちのことを熱く語っている場面の続きなので、語りは正彦です)

 翌年文久二年(1862年)九月には、幕府はオランダへ留学生を16名派遣します。軍艦の発注や軍事の勉強のための、優秀な幕臣と職人たちでした。
 安政六年(1859年)横浜港が開港してからは、山のような積荷が港を覆い、物価高に庶民の暮らしが行き詰まっていきましたので、開港した横浜を閉鎖せよとの声が高くなってね、幕府は文久三年(1863年)の年末に、横浜港封鎖を交渉するために第二次遣欧使節団16人をフランスに送っています。横浜港封鎖など、もとより不可能な任務だったのですが。
 同じ年文久三年(1863年)の五月には、討幕派の長州から伊藤博文ら五人がエゲレスへ留学し、慶応元年(元治二年、1865年)四月には、薩摩藩が十九人をエゲレスへ派遣しています。
 慶応元年(1865年)、幕府は外国奉行一行をイギリス、フランスへ送り、製鉄所建設のための技師雇い入れ、用具購入をしましたから、鉄を必要とする新時代を感じていたのでしょう。幕府がなくなることは予見できなかったでしょうが。
 木曽洗馬騒動のあった慶応二年の八月には、福沢諭吉先生の「西洋事情」という本が出版され、秋も深まった頃、幕府の留学生十二名がエゲレスへ経ちました。
 福沢先生と仲良しの中村正直という方が留学生の監督で同行し、ヨーロッパも廻って来たのですよ。羨ましいですね。 中村正直先生は二十年も前から、昌平坂学問所で英語を学んでいたということです。
 
 (次回、連載408に続く)

< 2024年01>
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