京都で仕事をしていた頃、医者から「胃がんです」と告げられ、一番の悩みは、子供たちにどう話そうか、ということでした。
 「即刻、明日にでも入院して下さい」と言われたのに、
 「介護福祉士の実技試験を受けたいので、一週間待ってください」と返事をし、ぐずぐずしていました。
 力をふり絞って、まず、同居していた高1の末息子に。
 彼は、冷静沈着に受け止め、「あ、そうですか。お大事に」というようなお返事だったと思います。
 入院前の一週間は、本来は入院してからやるべき諸検査を、毎日の通院でこなし、合間に実技試験。モーレツに忙しかったです。
 で、胃がん入院は、長男に電話で簡単に話し「他の子や、私の父母妹にも伝えてぇ!」という感じでした。
 手術の前日入院し、その折「病状その他の説明をしますので、ご家族を呼んでください」と言われました。
 すると、その日、長野から長男夫妻が、ニューヨークから長女が、舞鶴から次男が来てくれ、説明を受けるために担当医師に呼ばれた時には、私の後ろにゾロゾロとした一群が続きました。
 狭い部屋は満杯に。ちょっと、誇らしい私です。
 翌日は、東京から妹も義母も来てくれ、長丁場の手術の間、久々に再会した子供たちは、ワイワイと京都見物に興じ、金閣寺で撮った修学旅行のような、楽しそうな写真が残っています。
 しかし、手術が終われば、みんなみんな、それぞれの場所に帰って行ってしまいました。
 母は、当分は死なない、と分かったのでしょうね。
 忙しくて、長男と末息子にしか入院の知らせができなかったので、3週間の入院中は、訪問者が少なく、とても寂しい思いをしました。
 病気の時の寂しさは格別です。
 教会では、病者訪問、という活動があるそうで、意義深いことです。私も担ってゆけたら、と思いました。

 久々に、2人で過ごした時間の事を、娘が投稿してくれました。
 料理の写真は、ぜ〜んぶ、私が作って、娘に食べさせたもの。幸せな想い出てす。

[娘の投稿文]
 松本で母と3日過ごし、特急あずさで東京に向かっています。
 ひたすら、畑で採れた野菜や家庭料理を出してくれて、ウエストがきつくなりました。。。
 でも毎回母の炊いた小豆を添えたアイスを食べた以外は、野菜と肉と良質の油で。
 そして3食昼寝付きで、仕事のはかどり半端なかったです。実家恐るべし!!
 のこりの5セミナーもだいたい準備も目処がつき、買い物もできたし。
 明日は六本木で強みのセミナー、そのまま秋田に飛んで、臨床心理士会の研修をさせて頂きます!

 3泊2日で娘が帰ってきました。松本の家は初めてです。
 「きれいに暮らしているのね」とほめて貰ったのが嬉しかったです。
 「幸せそうね」とも。「はい」と答えました。
 久々の単身帰国だったので、娘が来たら、二人で温泉に行き、ゆっくりおしゃべりして過ごそうと思っていました。
 が、仕事で来日した合間を縫っての帰信なので、娘は全く仕事モードで、寸暇を惜しんで仕事の準備です。
 でも、そこは母親。娘のそんな姿も頼もしく、側にいられるだけで、幸福でした。
 娘から見ると、私は自分軸のない、問題人間のようで、今回貰ったアドバイスは、
 「自分を大切に生きることが、回りの人の幸福につながる」です。
 娘は十数回の講義の録画を、私のPCに残していってくれました。
 今朝、彼女を近くのバス停まで送り、急いで帰宅、その録画を数回分見ました。
 格調高く、面白く、我が成長にも役立つようなものだったので、しっかり勉強してみます。

 早起きの練習中で、だんだん上手なりました。
 ポイントは早く寝ることですね。
 玄関前の駐車場のブロック塀に沿い、細長い花壇を作ることにして、今朝は、朝飯前の庭作り。
 久々の陽光は、夏の到来を告げ、日蔭の涼しさをきわだたせ、庭の緑を輝かせ、、、、、。
 高原風のさわやかな空気に包まれた、美しい朝でした。

 高等教育を英語で受けた娘は、帰国し日本で仕事をするようになって、日本語で書く学術的な文章の添削を、よく私に依頼してくれました。
 ファックスから出て来た沢山の紙を前に、赤鉛筆を持ち、私はわくわくしたものです。
 今回、ラヒルが「留学生日本語スピーチコンテスト」に応募する原稿を、私のポストに入れてくれた時も、同様のわくわくでした。
 ラヒルは、スリランカの日本語コンテストで第一位、南アジア日本語コンテストでも第一位の優秀な学生なので、私も力が入ります。
 原稿を幾度も読み直し、疑問点を数十カ所マークしました、
 数日後、一緒に晩御飯を食べながら、ラヒルの原稿に対するわが所見を述べること数時間。
 話は、日本語の微妙なニュアンスや、文化や意識やコモンセンスの違いに及んだので、外国人がどこまで理解できたか、不安でした。
 が、ラヒルを見込んで私も妥協せず、かなり突っ込んで話をしたので、
 自分でも近年になく、日本語の表現について考えた、という深い喜びがありました。
 それから数週間後、応募した原稿を見せてもらう機会があり、読んでみてビックリです。
 ラヒルは、私がクレームを出した箇所のほとんどを、しっかり理解していました。 
 わっ、すごい!
 再び晩御飯を食べながら、しかし、私はその完成原稿に、またもクレーム(少々ですが)。クレームばあさんでほんとにすみません。
 そして数日後、「原稿が第一次選考を通過した」という知らせがあり、
 先週の土曜日、数十名の応募の中から選抜された16名のスピーチを聞きに、Mウイングへ行きました。
 スリランカの正装の、白いスーツをまとったラヒルのスピーチは、柔らかな基調にもかかわらず、心が震える箇所が幾つかあり、感動!。
 応募後の私のクレームも、しっかり理解してくれて、本番で訂正されていました。
 国連の事務総長の発言のようなフレーズも追加されています。
 私は少し日本語をアドバイスしただけで、スピーチのマインドは、まぎれもなくラヒル固有の輝きでした。
 そして、結果は、ラヒルが第一位。
とても、嬉しかったです。

 多くの方の導きと助けにより、無事洗礼式を終えることができました。
 体験、とりわけ宗教的体験は、自分で味わってみてこそです。
 文字で書けば、たかが、洗礼、ですが、
受けてみれば、感謝と喜びが、ぎっしりでした。

 少し前から、神が常に右肩にいて下さるので、寂しいということはなくなりました。
 が、食事の時など、一人で黙って食べるのもつまらないので、肩の神に話しかけたりしていると、テレビドラマの場面ーー夫を戦地に送った妻が、影膳を据えたり、あるいは、夫が、先立たれた妻に話しかけながら余生を送る場面ーーと重なりました。
 そうか、愛する人がいつも、肩の上にいるなら、別に寂しいということはないのだ、、、、と。
 亡き人が、共にいて守ってくれる、と思って生きてきた歴代の人々の気持ちが、とても身近に分かりました。
 昨日の洗礼式で、初めて聖体なるもの(パンを模した薄い食べ物)を口にし、聖別された葡萄酒をいただき、白いベールをかぶりました。
 式の後、代母の方が
「これからは、やるべきことを、心に住むキリストが教えてくれるようになるの。
 矢継ぎ早に指示が飛んでくるわよ。
 マザーテレサも、その指示を実行していた、という訳」とおっしゃいました。
 なんと!!! 
 神は心の中いて、指示とゲキを飛ばす人だったのです!


[Keiko.Miyashitaさんの投稿]
 7月17日(日)洗礼式がありました。
 石上さんおめでとうございます❤
 これからもよろしくお願いします☺



 夢を一番大量に見ていたのは、30年程前のことです。
 中でも繰り返し現れたのは、片方の靴が川に流される、という夢でした。
 夢の中で私は、急流の岸辺で、赤ん坊をしっかり抱き、あるいは子供の手をきつく握り、流されないように頑張っています。
 でも、片方の靴が流れにさらわれ、困惑して追いかけ、しかし流れに見失い、途方に暮れていました。
 靴や履物は、人の依って立つ場所の象徴です。
 夢を見ていた頃には気づかなかったけれど、確かに、あの頃から、私は、立ち位置を失ういくつかのことに、遭遇したのでした。
 30数年後の、今月13日の水曜日、
私は、2組の靴が、目の前にきれいにそろえて置いてある夢を見ました。
 ある場所に集い、帰ろうと思って下駄箱を見ると、行きに履いてきた靴の他に、もう一組の私の靴があり、きらり~と光っています。
 あれ?あれ?どうして?、、、。と思っている所で目覚めました。
 目覚めて、2組の靴の意味は、すぐに分かりました。
 長い間、私はセットで、神様にお願いしていた事柄があるからです。
 こういう類の事は、神様にお願いはするももの、くじけてばかり、というのが常。
 そうだから、不安と裏表だからこそ、神に祈るわけです。
 この度の我が夢は、それが、その立ち位置が、今、きらりと光ってそこにあること、を知らせてくれたのでした。
 夢の話は、夢みたいな話だから、夢のように、夢見るように、言うとして、
 神様にお願いしていたのは、よき伴侶と、書く力、です。

 胃がん手術をした翌日、執刀医がベッドの脇へ来て、
 「切り取った胃を見ますか」と聞いて下さったのは、16年前のこと。
 「ぜひ」とお願いした私の枕元に、私の胃が運ばれ、
 若き外科医は、合わせた両の掌を開くように、その胃袋を広げました。
 「白っぽく変色している、直径7センチ程のここが、浸潤がんでした」。
 それから、胃袋の端っこをつまみ、ずるずると持ち上げ、
 「切除したのは、これだけです」、と全貌を見せて下さいました。
 突然の事だし、体のあちこちにまだ管が沢山ついていて、私は質問するモードではありません。
 お礼を言うのがやっとで、医師と胃を見送りました。
 しかし、目に焼き付いているのは、七夕飾りのようだった、切除胃の全貌です。
 胃から、スカートのひだのようなものが、ひらひら垂れていて、それは、玉飾りのような球や紐で構成されていました。
 あれは何だったのか?
 胃切除の後、一番変わったは、大量に見ていた睡眠中の夢を、ほとんど見なくなったことです。
 このことは、あの七夕飾りもどきと同じくらい不思議ことですが、
 もしかしたら、夢は胃とその周辺で見るものかも知れません。
 七夕飾りは、リンパ節の塊だったかも知れません。
 人生は夢のようだとも思いますが、そんな私が、最近よく夢を見ます。
 その夢のことを書きたかったのに、前置きが長くなり過ぎました。

 代母になって下さる方や、白いベールを用意して下さる方から、
 「受洗おめでとうございます」と言っていただきました。
 28年前のプロテスタントの受洗の時も、同じ言葉を聞き、とても嬉しかった事を想い出しましす。
 そう言ってくれたのは、かつての夫で、
夫の家族の影響もあって、私はキリスト者になりました。
 精神疾患と、アルコール依存症で苦しんだ夫との結末は、悲劇的でしたが、私を神へと導いてくれたことに、感謝しています。
 苦しみの中にあって、彼を支えた信仰を、私もやっと、少しだけ、わかるようになりました。
 信仰を得たことは、人生の最大の宝と思っていたのに、神が共にいることが解ったのは、つい最近のことです。
 でも、つらつら思い出してみるに、28年前、
「神は、どこにいるのですか」と質問した勉強中の私に、
牧師は言いました。
「右肩の上、後方あたりかな」。
 それで、今、神は、パソコンをしている私の、右肩上後方におられます。
 もっと、早く思い出していれば良かったわ。
 なんとなく、ずう~っと、神は遠くの空にいると思っていて、
 ほとんどいつも忘れていましたから。
 かつての受洗の時、牧師が聖書の扉に書いて下さったのは
「恐れるな、雄々しくあれ」という意味のイザヤ書からの抜粋でした。
 これも、今にしてやっと、この信仰の真髄だったのだ、と思い至ります。
 恐れないで、不安がらないで、神が共にいるのだから。

< 2016年07>
S M T W T F S
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