連載423。小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生-①キヨが語る岩原の智恵-2
 (前回から、章が変わりました。今日の語りの前半は俊量、後半からキヨになります)

 松本藩の廃仏毀釈と廃寺帰農の嵐は、明治三年十月に出された『葬式は神道式でする由の「説諭大意」』に始まり、明治四年十一月の「廃仏毀釈中止令」までの一年間に最も強く吹き荒れました。平の寺の四分の三が廃寺になり、智恵さまのお寺もわたくしどもの尼寺もなくなりましたから。
 この間、松本平の北の果ての岩原で、智恵さまは、どのように過ごし、何を考え、どんな決断をされたのでしょう。
 すでに跡形もなく壊された安楽寺を弔うかのように、ひっそりと暮らしていたようにも見えますが、どうなのでしょう。
 この事情はキヨさんがよく知っているので、キヨさんに聞いてみましょうね。
 なぜ、キヨさんか、ですって? 
 それはね、キヨさんは、頻繁に智恵さまの岩原弧峰院へ行っていたからですよ。
 梓川近くの大妻から北へ、岩原まで歩くキヨさんは、弧峰院への行き帰りに、堀金のわたくしどもの尼寺に寄ってくださいました。その都度、智恵さまについて、沢山のことを話してくれましたね。
 キヨさん、今回は、岩原での智恵さまの様子を、皆さまにお話ししてください。みな、楽しみにしていますよ。
 キヨさんが快く受けてくださったので、さあ、森の中の廃寺で暮らす智恵さまのお話の、始まり始まりです。
 「はい、キヨでございます。智恵さまことなら、いくらでも話したいだじ。話しは沢山あるだもの。まずは、なぜキヨが毎月智恵さの寺へ通っていたかずら。
 この話しの中で、自分のことをキヨと言うのは少し恥ずかしいけど、おら、と言うのも、恥ずかしい年ごろせ。わたし、というのはもっと恥ずかしいし、俊量さまみたいに、わたくし、なんて、口がさけても言えないべ。それで、キヨと言うことにしたのせ。昔からそう呼ばれていただもの。

 (次回、連載424に続く。
 今日のマイお宝写真は、復活のお礼と記念に。今日はイースターで、今年は特別に大きな感謝)

連載422。第7章・臥雲辰致の誕生―①キヨが語る岩原の智恵ー1
 (前回で、廃仏毀釈により、智恵の寺も俊量の寺もなくなり、帰農しました。今回から7章です)
 
 わたくし俊量が、後に聞いた話では、明治四年の春浅き頃、安達達淳和尚さまは、その謹慎中に、大町霊松寺の裏山づたいに東京まで行き、新政府に廃仏毀釈の間違いを説いたそうでございます。
 新政府の役人は「りっぱな坊主がいるもんだ」と驚いて考えなおし、政府の方針は見直されることになったそうですよ。安達和尚様のお話ですが。
 わたくしどもは曹洞宗ですが、浄土宗や浄土真宗の中にも気骨のあるお坊様がおいでになりました。
 松本の町場、下横田の真宗正行寺佐々木了綱和尚さまは、上京して政府の意図を直接に聞き、松本藩の廃仏毀釈が行き過ぎだったと知ったのでございます。
 松本藩は寺の根絶を目指していましたが、明治政府の意図は、神道を国教にするために神道と仏教を分離することだったそうです。
 寺領も神社の土地も租税をとることができるように、いったん没収しただけで、仏教を根絶する意図はなかったらしいのです。新政府は「神仏分離令」は出したけれども、「廃仏令」は出してはいないと。
 真宗の佐々木和尚は、松本藩命に抵抗しました。同宗の寺院と連携して本山を動かし、廃寺を阻止したので、真宗のお寺は、二十三寺院のうち二十が残ったのでございます。
 明治四年七月、廃藩置県が行われて松本藩は松本県となり、藩知事の戸田光則さまは華族となって東京に移って行かれました。
 同じころ、政府は「寺院帰農緩和の通知」を出し、十一月に、松本県が「廃仏毀釈中止令」を出すにいたって、激しかった松本の廃仏毀釈もおさまっていきました。暴風雨が突然に去って行ったかのようでした。
 しかし、そのひと月前の十月九日、智恵さまの寺と私どもの尼寺は、正式に廃寺となっていたのでございます。智恵さまは名を改め環俗しました。十一月の「廃仏毀釈中止令」の発令に、わずかに間に合わなかったのでございます。
 
 (次回、連載423に続く。
写真はマイお宝写真です。(どーこの、だれーかーは、しーらないけれどー♬)風邪ひきには一番の薬。

連載421。小説『山を仰ぐ』第6章・幕末から明治維新へー⓷廃仏毀釈と安達達淳ー13
 (明治四年、安達和尚の命掛けの抗議がつづきます。そして、智恵や俊量の寺は?。この稿で第6章は終わりです。語りは安達和尚から俊量へ)
 
 よう、俊量よ、役人にそう言われ て、わしがなんて答えたと思うだか?
 我ながら、よく思いついたものせ。ああいう時は、仏の後押しが働くだね。次の言葉がパっとひらめいただ。わしはお役人に言ったのせ。
 『地獄極楽は、ただ今お目にかけますゆえ、しばらく待たれよ』とね。
 わしは他室にはいり、白装束を着込んだ。白木の三宝に短刀を載せ、顔を一段と恐ろしく作ってみせたじ。衣装部屋を出、再び岩崎の前に端座をして言ってやったのせ。声にも凄みがあったずら。
 『地獄極楽はこの世のものにはありません。これより共にあの世へ行きて、地獄極楽をお見せしよう。わしが案内するから、いざ、腹を召されよ』と膝をすすめて詰め寄ったのせ。  
 役人の岩崎はすたこらさっさと逃げ帰っていったさ。
 どうじゃ、俊量、おもしろいじゃろ。これが、わしの、胸のすくよな大博打じゃ」
 安達達淳和尚は、大声で豪快に笑い、真一文字の太い眉を上げたり下げたりしておりました。
 和尚様のお話はあと少し続きましたよ。
 「松本藩の役人の岩崎はな、その後もたびたび手下をつれてわしを説得に来たがの、わしは頑として廃寺を拒んだのせ。それでの、ついに、わしは霊松寺に謹慎となった。
 明治四年の春のことだったじ。松本一円で怒涛のように寺が打ち壊されて行くのが、人づてに聞こえてきただよ。そりゃ、辛い日々じゃった」
 藩内で廃された寺院は、百六十四寺のうち百二十四寺院に達っし、信濃日光と呼ばれた大寺院、波多の若沢寺も破却になりました。
 智恵さまの岩原弧峰院も、わたくしどもの堀金の尼寺も、ついに、廃寺になったのでございます。

(次回、連載422に続く。今回で「第6章、幕末から明治へ」が終了し、次回から「第7章、臥雲辰致の誕生」が始まります。
 写真は、「答がすでにある問なんかに用はない(正解という歌の歌詞の一部)」と力いっぱい歌う、安曇野市で一番大きな中学校の卒業生。合唱コンクールか第九の合唱か、と見間違うほどの迫力です。指揮をしているのは我が孫15歳(中央で両手を振り上げてる、りりしい後ろ姿。と、振り向いて挨拶をしている横顔)。 彼は小澤征爾と同じ星の生まれだから、この経験はさぞや喜びに満ちていたのでは、と推察します)

連載420。小説『山を仰ぐ』第6章・幕末から明治維新へー⓷廃仏毀釈と安達達淳ー12 
 (明治4年春、安達達淳和尚が、藩とのやり取りを俊量に話しています)

 大町組全寺院の坊主が集められたあの日、藩から派遣された二人の役人は、下手な問答と詭弁を抜かして脅してくるばかりだったじ。他の坊主たちは静かに頭を垂れているだけだでね。わしは大声で、怒鳴るように言ってやっただ。こういうことせ。
 『今、寺があるのも、そこに住職がいるのも、深い理由があってのことだじ。住職は本山の承認でそこにおるだ。領主の命に依るものではないわい。
 寺と僧侶の去就を、本山の立会いなくして、領主の一存に依るのは横暴という外はない。 帰農を勧める根拠を説明されたい』とね。
 藩の役人はろくな説明もできなかったでね、そうそうにお引き取り願ったというわけせ」
 安達和尚様は、怖そうなお顔をくずして、なんとも嬉しそうにお笑いになりました。笑いながらも、念をおされましたよ。
 「よう、俊量よ、ここが一番大切なのじゃ。軸が二つあるということだじ。
 坊主にはこの世の軸と仏の軸とがあるのせ。人間は弱いものだでね、二つの軸で支え合って、やっとまっとうに生きてゆけるだ」
 安達和尚のお話しはまだまだ続きましたよ。
 「よう、俊量よ、わしの大博打の話はここからだじ。よく聞いておけよ。
 その日、すごすごと帰った藩の役人の岩崎という男が、後日、廃寺願いを強要しに、わしの霊松寺にひとりで乗り込んで来たのせ。それでまた、くどくどとわしを説得しただ。こんなことだじ。
 『今は、寺が亡くなる時勢なのだ。それが時流ってもんだ。 今年の一月には、明治の新政府が、全国の寺の所領をすべて没収したではないか。
 松本藩も率先してこれを行うべきで、すでに、藩主が強くそれを求めているのだ。
 だいだいが、仏説に蔓延している虚言の多さはいったいなんだ。地獄極楽というが、それはいったい何処にあるのか、見せよ』と抜かしおったわ。

 (次回連載421に続く。
 写真は、連合松本の丸山議長から送られた花束を持つ、臥雲さん。投開票日の深夜のこと。この会が終わるまでずっとこの花束を抱えていました。(前回投稿の花束と違い中身が見えないけれど、包装紙は渋くて抜群ね)
 民意に一番耳を傾け、受け留め、市政に反映させようと遮二無二頑張って来たのは臥雲さん、ということを、連合の皆さまはよく知っておられます。浪人だった初めの4年間、臥雲さんは民意の聞きまくりでしたから。寂れゆく市街地の危機も)

連載419。小説『山を仰ぐ』第6章・幕末から明治維新へー⓷廃仏毀釈と安達達淳ー11
 (明治4年の春まだ浅い松本平は、大異変が進行していました。初めの語りは俊量尼)

 知藩事戸田様の命令が功を奏し、明治四年の二月までに、藩内の村々はほとんどが神葬になりました。
 明治四年三月、戸田様は、松本町の大名主(おおなぬし)に対し
 「膝下の寺院へ通達し、住職・僧侶一同を会所に集め、藩官に銘じて、廃寺帰農を厳しく諭すように」との命を出したのでございます。
 藩命に従わなかった瑞松寺の和尚を獄に下したりしたものですから、多くの寺院は前後して廃寺帰農の申し出をしましたが、廃寺届けは強要されたのもでした。
 その通達は町部だけでなく、松本藩領全域におよび、同時期に、遠くの大町の陣屋にも、大町組全寺院の僧侶が集められました。
 松本から派遣された藩の役人が、僧侶の無知をなじり、寺をやめて帰農するように促すと、多くの僧が黙って引き下がったといいます。
 その中で、ひとり、傲然と反論する恐ろしい顔をした僧侶がおりました。大町を代表する大寺院霊松寺の安達達淳和尚でございます。
 後にね、安達和尚さまは、この時の顛末を、面白可笑しく、こんな風に話して下さいましたよ。
 「わしも長いこと坊主をしているが、あの時ほど、痛快だったことはないずら。一世一代の大博打みたいなもんさな。大博打に勝ったら、気分がいいずら。坊主でもよ。こんなことがあったのせ。

 (次回、連載420に続く。
 写真は、当選祝いの花束と、それを活けるために届けられた花瓶。陶芸家髙野榮太郎さんのフェイスブックより)

連載418。 小説『山を仰ぐ』第6章・幕末から明治維新へー⓷廃仏毀釈と安達達淳ー10
 (明治3年10月、元藩主の戸田松本知藩事は「武士領民一同すべて神葬にせよ」との命令を出しました。語りは俊量尼)

 けれども、それは、わたくしどもの寺が小さな尼寺だったからで、安楽寺は、そうはいきませんでした。藩からの正式なお触れがでたと同時に、安楽寺潰しが始まったのでございます。
 智恵さまが、安楽寺の僧侶や檀家や山口家の方との話し合いを重ねた結果、他の寺院と同様、致し方ない、ということでありました。しかし、なんとも残念な結末でございます。あの、城のように立派な安楽寺が無くなるというのですから。
 松本藩の廃仏稀釈はそりゃもう凄まじいもので、山口家が段取りをし、寺を壊し、廃材を始末していきました。檀家総代の山口家は、山林管理や材木の専門家でもありましたからね。仕事は手際よく進んだのでございます。
 安楽寺の僧のほとんどは還俗、帰農しました。その中でただ一人残ったのが智恵さまでした。
 智恵さまの弧峰院は森の中の庵という風情でしたし、智恵さまと山口家の次期当主の芳人さんは懇意でしたから、話し合いを重ね、知恵さまの岩原弧峰院とわたくしどもの堀金弧峯院は、とりあえずそのまま残してもらえることになったのです。
 どちらも安楽寺の末寺なので、表向きは廃寺でしたが、二つの末寺は安楽寺から少しはなれていましたからね。智恵さまは寺の周りを耕し、そのまま一人で暮らし、私どもの尼寺も村人に守れられ、日々のお勤めや人助けの仕事に励んでおりました。
 智恵さまは、取り壊された安楽寺の大切な仏像を、藩には内緒でこっそりと、知り合いの家へ預けて廻っていましたよ。大切なことをなされましたね。

 (次回連載419に続く。
写真は、先週の松本フォークダンスクラブの会で。明日水曜日の例会は東部公民館18時20分頃から。昼の部は安原公民館13時30分からです。どちらも15,6人で楽しく踊っています)

連載417。小説『山を仰ぐ』第6章・幕末から明治維新へー⓷廃仏毀釈と安達達淳ー9
 (明治3年秋の松本平。語りは俊量尼です)

 そんな尼寺に、大町の安達達淳和尚が再び顔をだしてくださったのは、明治三年の秋、信濃柿の小さな朱色の実が、緑濃い山里に明りのように灯っていた頃のことでございます。
 「よう、俊量、元気にしとるかいな。
 知っちょるかい。ついに、大変なことになっただいね。
 松本藩主から藩知事になった戸田の殿さまが、この八月に、『松本は、葬式は神式でします。無檀無住寺院は廃棄します』ちゅうのを政府に願い出たのせ。他の藩は、まだそんなこと言ってねぇだじ。
 ほいでもって、廃仏毀釈とやらが一気に進んでおるわい。『ほれ、うちら松本藩は口先だけでなく実行しているぞ』というわけじゃ。
 戸田さまは十月には武士にも神葬を強要し、さらに領内の村役を藩庁に呼び出しただ。村役たちに朝廷崇拝の旨を説き、ついに、領民一同を、一人残らず神葬に改宗させることを命じたのせ。藩が『説諭大意』ちゅうのを公布し、役人が説いて回っているだじ。
 ほいでもって、民の檀家離れと僧の帰農が、目も当てられない速さで進んでおるわい。僧と檀家を無くし、無檀無住になった寺院を廃寺にしとるだ。寺と仏像壊しは、そりゃ、もう、凄まじい勢いだじ。
 俊量や、お前のところにも、何か言ってきちょるやろう、ん、どうだ」
 わたくしの寺も、堀金村のお役の方を通じ「廃寺にせよ」との通達を受けてはおります。
 しかし、村人は、長い間人助けに励んできた堀金弧峯院の仕事を高く買い、尼寺がなくなることには反対で、仏教が今の世で排除されても、この寺は奇跡のように守れらておりました。

 (次回、連載418に続く。
写真は、昨日の深夜に出た信毎の号外です)

連載416。小説『山を仰ぐ』第6章・幕末から明治維新へー⓷廃仏毀釈と安達達淳ー8 
 (語りは俊量尼です)

 新政府が、神道を国教とする詔(みことのり)を出したのは、明治三年の一月のこと。神道による祭政一致の国作りが、明確に打ち出されたのでございます。仏門の者にとっては、天地がひっくり返る程のお触れでございました。
 知藩事の戸田光則さまは、諸藩に先駆け直ちにこれに応じ、藩政の改革の実行に熱心に取り組んでいるとのこと、不安は一層強まります。
 自ら僧侶を止めるものが出はじめ、寺の破壊もひたひたと進んでいました。
 時代の転換とはこういうものなのか、と諦めざるを得ないような空気がまん延していたのでございます。
 岩原の弧峰院から、智恵さまが幾度かお見えになり、わたくしどものことを案じ、安楽寺の様子 を知らせてくださいました。智恵さまは、安楽寺をどうするか、今後のことに心を痛めておいででした。
 相談相手は何と言っても山口家です。山口家は安楽寺の後ろ盾となって数百年もこの寺を支え、まるで一心同体のように力を合わせて一緒に岩原を治め、松本平の北を守ってきたのです。
 「安楽寺をどうするか」は智恵さまの考えどころですが、実際に「どうかする」場合、山口家の協力がなければ、何も動きません。
 正彦さんの伯父の山口芳人さんは、今は義父の当主山口安吾さまの代理をされているので、智恵さまは、芳人さんと度々会い、よくよく話合っているということです。安楽寺のことや、智恵さまの弧峰院や、わたくしどもの堀金弧峯院のことなどもね。
 当面は、ともかくも、わたくしどもの尼寺は、出来るところまで持ち堪(こた)えようという心持で、日々のお勤めに励んでおりました。これからどうなるのかの不安を抱えながらも、寺の五人の女たちは力を合わせ心を合わせて、この難局を乗り越えて見せるという気概があったのでございます。

 (次回、連載417に続く。
 写真は、今日の波多、臥雲さんの集会です。市長選は3月17日日曜日ですが、市内4個所で期日前投票ができます)

連載415 小説『山を仰ぐ』第6章・幕末から明治維新へー⓷廃仏毀釈と安達達淳ー7 
(前回に引き続き、語りは大町の安達和尚、聞き手は俊量尼)

 安達和尚さまは、さらにしみじみと言われました。
 「なあ、俊量、なくてもいい寺もあるかもしれねえな。今じゃ、俗物坊主も多いかもしれねえ。しかし、仏教というものは、ほんとは素晴らしい価値のあるものぞ。
 人間に芯がはいるためにも、この世が戦さなしに安寧で暮らすためにも、上に立つものが慈悲の心を培うためにも、仏教はなくしてはならねえ。
 それを知っている人が少ないのが問題だじ。
 なあ、俊量、お前は、わかっとるだかや」
 あら、大変、御鉢がわたくしに廻ってきました。わたくしは咄嗟にこんな返事をしてしまいましたよ。
 「わたくしは、ちょっと怪しいですが、安楽寺下の弧峰院の智恵さまなら、解っておいでだと思います」
 「そうか、そうきたか。
 なれば、これから、まず、智恵のところに行って、このことを伝えよう。
 智恵も驚くずらなあ。智恵はこれから、どうするだかや。
 安楽寺に残った僧たちだってせ、今頃は大騒ぎずら。先頭の智順和尚が消えたのだもの。僧侶たちは、右往左往だじ。皆はいったい、どうするだかや、、、、。
 いやいや、その前にせ、俊量や、おまえはどうするだか」
 戸田の殿さまが安楽寺の智順和尚さまに命じたことは、まだ内々のことでしたので、しばらくは、智順和尚さまが行脚の旅に出たことも内々にされておりました。
 安楽寺の僧侶や、末寺の智恵さまやわたくしたちも大騒ぎはぜず、世の成り行きを見ながら、これから自分はどうするかを、それぞれがさぐっているという日々が続いたのでございます。

 (次回、連載416に続く。
 写真は、今日、松本市やまびこ道路沿いの歩道に咲いていた福寿草です)

連載414。小説『山を仰ぐ』第6章・幕末から明治維新へー⓷廃仏毀釈と安達達淳ー6
 (殿様から廃寺を迫られた安楽寺の首座が、行方も知れず姿をけして、松本平の寺は危機を感じていました。語りは、大町霊松時の首座の安達達淳和尚です)

 平田派のお人は、寺よりも神社のほうが良い、葬式も仏式ではなく神式にせい、と言うのせ。
 『神社のほうがお金がかからない。神道は御神体や偶像がなくて、自然を大切にする。復古神道は天皇家が中心で、日本人は天皇の子である。天皇は人民のために祈り、祝詞(のりと)を上げる。
 それに引きかえ、寺は冠婚葬祭や盆が勝手に来て、お金がかかる。本堂を直すなどの寄付もえらい。寺受け制度だって、ない方がいいずら』とまあ、こんな言い分せ。
 平田篤胤は『太陰暦はやめて太陽暦にするべし』と言って江戸を追われたくらいだから、西洋のものをどんどん取り入れたいだ。平田派は、ゴマ供養や祈祷を、国を滅ぼす根本的な悪と見ているだじ。
 外国人を呪い殺すなんていっている密教を特に嫌っているし、実証できないことで人の運命を決定していたら、西洋に負ける、と言うとるね。ま、平田派の人たちの言い分だがね。
 町の衆はどう思うとるかというと、廃仏稀釈への気持ちはこういう事のようだじ。
 『藩主は、大名道具を道で焼いたでねえか。
 侍だって身分や禄や刀を亡くした。
 坊主の廃仏稀釈も同じことせ。
 寺潰しに反対するもんはいねえでねえかい。僧侶の他は』

 (次回、連載415に続く。
 写真1は、おぐらやま農場の無施肥の農法が雑誌に載りました。「植物ホルモンに満ち満ちたリンゴの樹」の記事の農場主松村暁生です。
 写真2は、その雑誌『現代農業4月号』。編集部の方が数回取材に来てくれたそうです。
 写真3は栽培法の師匠の記事が、特集で掲載された『野菜だより』3月号。「道法流新野菜の垂直仕立て栽培」というタイトルで巻頭8ページのカラーだそうです)

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