連載512小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー57
 (機械を持って波多へ行くことになった辰致は、機械を取りに岩原の森の家に戻りましたが、たった3日間のことなので、キヨは寒くて暗い岩原の家には戻らず、尼寺にとどまり、3日後、辰致は機械を持って波多へ行きました)

 納次郎は小田多井の実家に泊まりながら、綿の配達と綿糸の収集の仕事を手伝っていた。少し前までやっていた仕事で、タッチさの少年の頃の仕事でもあった。 
 配達の担当が北回りの道だったので、納次郎は、毎日堀金の尼寺に顔を見せてくれたじ。納次郎は嬉しそうに言っていたさ。
 「キヨに何か異変があったら、すぐにタッチさに知らせることになっているんだ」と。
 なんだか可笑しくて、キヨは久しぶりに笑った。キヨは、徐々に快方に向かっていたさ。
 三月十五日に開産社の開所式を終えたタッチさは、十六日の夜には帰って来て、半月振りに尼寺に顔を見せた。
 その夜は納次郎のいる小多田井の実家に泊まると言っていたが、タッチさはげっそりとやつれ、ひどく疲れているようだった。
 今回だって、五里の道を急ぎに急いで帰ったのだろうから、それも当然かもしれないが、しかし、波多での半月がどんなに忙しいものであったかを、次の日、キヨと納次郎はタッチさから聞いた。
 波多の有力者の家で機械を動かし、綿糸作りの実演をしながら説明をし、打ち合わせや寄り合いをかさね、挙句は、松本の開産社まで、機械を運んだということだったさ。

 (次回、連載513に続く。
 昨日の土曜日は、城東公民館の文化祭でした。子供たちの一輪車パレードが超ステキ、私たち松本フォークダンスクラブも、4曲を踊りました)

連載511小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー56 
 (波多へ行くかどうか迷っている辰致に、キヨは言った。「俊量さまがいるからキヨは大丈夫。波多へ行っていいさな」)

 タッチさは言った。
 「俊量さまも、キヨも、納次郎も、ほんにありがとう。ならば、機械と私たちの未来を切り開くために、波多の事業を進めてみるだかや」と。さらに、言ったさ。
 「だで、今から、さっそく、置いてある機械をとりに岩原に帰るとするが、キヨはどうするかや。岩原では機械の総仕上げと点検のために二、三日いるだけだが、一緒に帰るか? それとも、ここに居させてもらうかや?」
 岩原から堀金の尼寺へ来た時は、タッチさが二日でもどったら一緒にまた岩原に帰るつもりでいたのに、今、そう聞かれたら、キヨは気持ちが暗くなったさ。
 あの暗くて寒い雪の森の中の、寺跡の住居へ帰るのは気が進まなかった。それも、たったの二、三日でまたここへ帰ってくるのだもの。このまま、ここに居たかった。キヨは言ったさ。
 「キヨはまだ山道は歩けんから、荷車に乗せてもらって帰らなならんが、上りの山道はえらい(大変)ずら。機械を持って山を下りるときは、機械を荷車に乗せるだから、キヨは歩かなならんさ。けど、雪の山道を下りるのは怖くていけねえ。キヨは、ここに居させてもらうだ。タッチさは、機械を持って波多へ行くときは、ここへ寄ってくれるずら。キヨはそれでいいさ」
 タッチさは言った。
 「よし、わかった。そうするべ。だが、今度は私が寂しくなるから、納次郎も借りていくぞ。機械を荷車で運ぶ時には、納次郎が必要だじ」
 三日目に、タッチさと納次郎は、機械を荷車に乗せ、再び尼寺に寄ってくれた。波多へ向かう途中、大妻のキヨの実家に寄って、キヨの容態などを知らせてくれたらしい。波多に機械を運んだ後、すぐに戻って来た納次郎が、そう教えてくれたじ。

 (次回、連載512に続く。
 秋のお彼岸に、父と母の墓参りで静岡に行き、いとこたちと会ってきました。写真はお寺前の謎の女二人と、いとこ同士の5人の数年前のスナップ。今回も皆の顔が見れました。いとこ女子会は94歳で元気な叔母も出席のイタリアンレストラン。長~~いお付き合いの良さを満喫です)

連載510小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー55 
 (波多での綿紡糸の事業の話に乗るとしたら、辰致はまた波多へ行かねばならない。どうしたらよいか、いつもの四人で悩んでいます)

 納次郎が、的を得た素朴な質問をしてくれたじ。
 「兄や、今度波多へ行くとしたら、どのくらいで帰れるだ?」
 タッチさは言った。
 「もし、この話を進めるなら、私は一度岩原へ帰り、この冬に納次郎と仕上げた太糸紡機をも一度整備して、三月の初めには波多へ持って行く。
 波多ではいろいろな人に機械を見せながら説明したり、実際に綿を詰めて綿糸をつくることになるだろうさな。水車仕掛けにするにはどうしたらよいかも、考えなならん。
 三月十五日の開産社の開所式に出席したら、すぐに岩原に戻るつもりだが、そうなると、半月は留守になる、、、、」
 タッチさは、いかにも困ったという風だったさ。キヨは、タッチさに、気苦労をかけるのが辛かった。タッチさは優しいから、キヨのせいで、こんなに悩んでいるずら。申し訳ないことせ。
 キヨは言った。大きな声はまだ出なかったから、ボソボソと小さな声で言っただ。
 「キヨは半月くらいなら、タッチさがいなくても大丈夫だじ。俊量さまのそばにいられるなら、大丈夫さ。タッチさのいない岩原の夜と、この尼寺の夜は全く違うだもの。ここには仏様がいるから、ぐっすりも眠れるのせ。タッチさは安心して波多へ行っていいさな」
 タッチさの目には涙が光っていたさ。タッチさは俊量さまの方を向いて言った。
 「俊量さま、それでもよろしゅうございますか。キヨを半月、預かっていただけますか」
 俊量さまは嬉しそうに言ったさ。
 「大歓迎ですよ。もともと、春が近づいたら、キヨさんを尼寺に呼ぶつもりでいましたから」 
 納次郎も、三人をかわるがわる見て微笑んでいたさ。

 (次回、連載511に続く。
 写真は今朝の信毎2頁。農作物は商品ではない、という話しです。商品ではない人間と同じように、農産物も、愛と尊敬と育成への投資を以って繁栄させなければ、、、とは、私の感慨)

連載509小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー54
 (波多から戻った辰致は、波多の衆が「事業の段取りを立てるために、機械の実物を見たいと言っている」と言いました)

 タッチさは続けた。 
 「正彦さんは今、東京の同人社で勉強しているから波多にはいないだが、東京へ行く前にいろいろ段取りをしてくれただね。ありがたいことせ。
 だが、そうなると、また、波多へいくことが多くなる。私はキヨが心配だ。
 この話は、今なら断れるだから、キヨと納次郎はどう思うか聞きたいのせ。俊量さまはどんな考えだか、、、、」
 数日前に波多から手紙が来た時のように、四人は押し黙っていた。それぞれが必死で考えていただいね。少なくともキヨはそうだった。頭はまだうすボンヤリとしていたが、そんなこと言ってられない、という一大事の気分だったさ。
 俊量さまが言った。
 「もう一度、確認しますが、そのお話は、キヨさんの心配がなければ、辰致さんとしては進めたいと思っているのですか?」
 タッチさが応えたじ。
 「そうですね。機械の動力は今は手回しですが、ゆくゆくは水車に繋げたいと思っています。しかし、この辺りでは、水利の関係で、水車は使えないのです。もし、機械を並べて綿糸を量産するなら、梓川のある波多の方が、地の利はよいかと思います。
 機械を使って稼げるようになれば、私たちの暮らしも成り立ち、子供も作れますから。このお話はありがたいです。でも私は、キヨが大切ですから、まずはキヨが元気になることをしたいのです」
 タッチさにそこまで言ってもらって、キヨは、嬉しいやら申し訳ないやらだった。しかし、事は簡単ではない。キヨが元気になるためには、どうしたらいいだか、それが問題だった。

 (次回、連載510に続く。
 写真は、故障中の玄関のベル。半月以上、No use に気づかず、訪問者に???の思いをさせました。「在宅のはずなのに、出てこない???」と。私も???でした。「私、家にいたのに、、、、???」と。どうしてベルの故障に気づかなかったのか。ご迷惑をおかけしました)

連載508小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー53 

 二日目の夕方、波多を出て帰路を北へ向かったタッチさは、小多田井の実家を通り越して、いの一番に堀金を目指し、深夜に尼寺に着いた。波多から五里の道のりを、脱兎のごとく駆けてきたずら。キヨが心配だったのずら。キヨもうれしかったさ。ありがたいことせ。
 タッチさは言った。
 「キヨが泣いてないでよかったじ。キヨの顔をみたら安心したさ。これから小多田井の実家に行って泊めてもらうべ。明日、納次郎と一緒にまた来るでな」 
 その夜は、タッチさがいなくても、キヨは良く眠れたじ。
 翌朝、俊量さまは、くすくすと笑いながらまた言ったさ。
 「仏さまがキヨを守っているからですよ。わたくしがお祈りして、よくよく頼んでいるのですもの」
 そこへタッチさと納次郎が小多田井からやって来た。タッチさは言った。
 「キヨの顔色が良くてうれしいさな。
 さあ、これから、三人で岩原へかえるべ、という予定だがな、その前に、キヨと納次郎に相談したいことがあるだ。どうか、俊量さまもそのまま、そこにいてくだされ。
 一昨日と昨日、波多の主だった方々が集まってくれて出た話は、こういうことだ。
 以前正彦さんの手紙で、勧業社の設立を知らせてもらったじ。あれが名前だけ変えて去年の末に開産社になっただと。その開産社が、三月十五日に筑摩県の出資者を集め、松本の本社で大々的に開所式をするのだと。
 波多からも武居美佐雄戸長を初め幾人かが参加するだが、波多では、私の機械による産業を起こしたい、ということで、私にも参加してほしいということになったのせ。
 さらに、その前に、私の発明した機械をまず波多で実際に見たい、ということになって、できるだけ早く、機械を岩原から波多に運んでもらえないか、とせ」

 (次回、連載509に続く。
 父と娘のお宝ツーショット4枚、2024年7月と、2021年12月と、2022年1月が2枚。)

連載507小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー52
 (俊量の提案で、辰致が留守の間、キヨは俊量の尼寺に行くことになりました)

 キヨが乗った荷車をタッチさが引き、納次郎が押して、岩原から堀金に向かったのは、それから間もなくの、晴れた日だった。二月下旬の厳寒の雪道ではあったけれど、堀金までは一里もない下り道だったから、そんなに大変な道中ではなかったさ。
 俊量さまが、青柳先生の医院から借りてくれた陶器の湯たんぽが二つもあったから、キヨは寒くなかった。
 その日、タッチさは、堀金の尼寺にキヨを預けたあと、波多に向かった。雪道の日帰りは無理だから、河澄家に一泊し、翌日には戻るという。もどるのが遅くなれば、キヨはもう一泊尼寺に泊めてもらい、三日目にはまた、三人で岩原のおらほの家に戻るつもりだった。
 納次郎は、キヨを堀金の尼寺に届けたあと、寺の手伝いなどをし、キヨが無事に寺におさまるのを確かめてから、歩いて20分の小多田井の実家へ行き、そこで泊った。
 納次郎は次の日も、小多田井からやって来て、キヨの様子をみたり、尼寺の薪割なんぞをしていったさ。
 キヨは、タッチさが波多へ行くのは寂しかったが、以前ほどつらくはなかった。
 俊量さまを初め、尼寺の女たちは優しかったし、何より、寺で預かっている、身寄りのない子供たちの声が響いていた。子供の声はたとえそれが泣き声であっても、可愛くて、とろけそうな嬉しい気持ちになれた。
 岩原の山に張り付いた暗い森の中から出てみれば、平らの里の大きな寺は明るくて、くつろいだ気持ちになれた。男二人と暮らしているのと違って、女たちの中にいることも、なぜか心が休まった。毎日のお勤めの声や、俊量さまの法話も楽しみだった。
 二日目のタッチさの波多からの帰還は、案の定、夜の遅くになったが、キヨは岩原にいた時のような不安はなかった。俊量さまは
 「仏さまが一緒だから、安心があるのですよ」と言っていた。そうかもそれねぇな、とキヨは思ったさ。

 (次回、連載508に続く。
 二年前の今日の、お宝写真です。取り壊しが決まって立ち退きを迫れた以前の家の前で、私の自慢の二人のお嫁さまと。この日、お二人は、それぞれの御夫君と一緒に私の新しい家を見に来てくれ、これによって今の家を買うGOサインが出たのでした。いろいろありがとね)

連載506小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー51
 (辰致と、俊量と、キヨと、納次郎が囲炉裏を囲んでいることろに届いた河澄さんの手紙は「辰致に波多に来て欲しい」と書いありました。語りはキヨ)

 囲炉裏の周りの四人は、皆、押し黙っていた。それぞれに考えていたのだろうが、どうしたらよいかわからなかっただ。
 おもむろに口をひらいたのは、俊量さまだった。
 「どうしたらよいでしょうね。迷うところですが、私は納次郎の意見に賛成です。
 辰致さんの気持ちもわかりますが、ここは、すぐに断らずに、一度、波多へ行ってこちらの事情も話し、一番良い道を探してきたらどうでしょう。
 新発明の機械を世に出すことは、臥雲の家を支えていくことになるのですから、これからの三人の幸せのためにも、ここはきちんと考えねばね。
 キヨさんのことは、俊量にお任せください。辰致さんが波多へ行く日は、堀金の尼寺で過ごしてもらいましょう。キヨは今、辰致さんがいないと寂しいでしょうが、心身が回復してくれば、それも問題がなくなりますよ。
 私も17歳で青柳先生に大失恋をした時、尼寺に逗留し、助けてもらいました。
 辰致さんも、二十歳で立ち上がれなくなった時、安楽寺で生き返ったのです。
 寺で仏に見守られて過ごすと、元気になりますよ。キヨさんも尼寺にいらっしゃい」

 (次回、連載507に続く。
 写真は、昨日のパーティです。70人くらいで踊りました。
 全曲踊った人(沢山います)は、47曲をおどりました。全曲のステップ全部を覚えている人もいます。すごいわね〜。フォークダンスは高度なパフォーマンスです。黒い影絵は、一つ一つ切り絵です。カモシカも力作❢)

連載505小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー50 
 (岩原の三人と尼寺の俊量が囲が、炉裏を囲んでいるところに、波多の川澄東佐から手紙がきました。それを読んだ辰致は、しばらく考えてから「断るべ」とつぶやきます。語りはキヨ)

 タッチさは、さらに続けて、波多の河澄さんから来た手紙の内容を話してくれた。 
 「波多で新発明の機械を幾台か作って稼働し、綿糸を沢山作って販売したらどうかね、と言うてるだ。
 さらに、特許の申請をしてみるべきではないかと。特許の制度は一度は創設されたがすぐに廃止になってしまったずら。そのまま廃止ではつまらないから、ともかく申請だけもしたらどうか、とせ。
 だから、波多村へきてくれないか、と言ってきただじ」
 納次郎は言った。
 「兄や、そりゃ、機械を世にだす、絶好の機会でないか。断る手はあるめえ」
 タッチさは答えただ。
 「だども、キヨが良くなるまで、私はキヨのそばにいたいだじ」
 キヨは複雑な気持ちだったさ。
 タッチさのいない日がまた来るなんて、イヤだ。あんな寂しいのはもうゴリゴリだ。
 だども、キヨのせいで、タッチさの機械が世に出る機会を逃したら、それこそ、申し訳なくて生きてはいけない。キヨは深い闇の中に落ちていくようだった。

 (次回、連載506に続く。
 写真は、7月31日のアルモニービアンでの舞踏会の最後。
 結婚式で新郎新婦が降りてくる、スロープの階段の上からの撮影です。シャンデリアが、グー!。
 明日の9月16日は、島内の体育館で、12:00より、松本フォークダンスクラブ主催のパーティがあります。全国各地よりお客様があり、大勢で踊ります)

連載504小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー49

 今年の正月は、正彦さんは岩原に来なかった。東京の中村正直先生の英学塾「同人社」に入学し、勉強をしていたからさ。
 上波多村の河澄東佐さんから手紙がきたのは、二月の半ばだったな。
 キヨは昼間は囲炉裏の火のそばで、床をしいて寝たり起きたりしていた。
 手紙が来た時、ちょうど俊量さまが来ていて、囲炉裏の周りでタッチさや納次郎も一緒にお茶を飲んでいたので、タッチさは、そこで手紙を開けたのせ。読み終わったタッチさに納次郎が聞いた。
 「兄や、手紙はなんて言ってるだ?」
 タッチさはしばらく黙っていたが、
 「さて、困ったことになった。断るべ」と言った。納次郎が言ったさ。
 「兄や、何を断るだかや」
 タッチさは、答えたじ。
 「あのな、去年の春に設立された勧業社は、年末には開産社と名前を変えて再出発をしただいね。本社は松本だけれど、筑摩県一円の大区長三十人が皆社長になっているから、それぞれの地区で産業を作り出す機運が高まっているだ。
 波多で私の綿糸紡機を稼働させたい、という話しは前々からあっただが、河澄さんはそれを初めたいと言ってきてくれただ。
 これは河澄さんだけの意見ではないということだじ。
 昨年、三溝村と上波多村と下波多村は、合併して波多村になっだずら。武居さんの三溝と、河澄さんの上波多と、波多腰さんの下波多とが合併したのせ。
 波多村の戸長は武居美佐雄さんになり、副戸長が波多腰さんになった。二人が忙しい村役になったで、臥雲とその機械の面倒は河澄さんの役なんだと。だから、これは川澄さんの手紙だども、波多村全体の要請である、と書いてあるだ」

 (次回、連載505に続く。
 写真はアメリカの家族の今と五年前。ママのガンを家族みんなが乗り越えたのでした。子供たちも辛い時期だったと思います。拍手だね)

連載503小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー48 

 明治七年は静かに暮れて、明治八年がやって来た。タッチさは三十四歳に、納次郎は十七歳に、キヨは二十一になった。
 雪に包まれた森の家の囲炉裏には、天井から自在鉤が下がっていて、たいていは鍋がつるしてあった。寒くなって火が必要になる季節は、囲炉裏に終日薪(たきぎ)をくべて暖を取り、煮物も、炊飯も、湯沸かしも囲炉裏の上で済ませた。
 タッチさと納次郎は、囲炉裏を囲み、木っ端を刻んだり、磨いたりしていた。 
 納次郎が、「兄や、このこんまいのは、機械のどの部分になるだい」と問えば、タッチさは、図面を指して、「ここだいね」と答えている。納次郎は、さすがタッチさの弟だけあって、機械にも興味を示していたさ。
 キヨも昼間は囲炉裏の端に布団をしいて横になっていた。とろとろ眠りながら、タッチさや納次郎の姿を眺めたり、囲炉裏の上に立ち昇る湯気を見たりしていた。
 少し元気になると、薪をくべる係がキヨに回ってきたので、キヨは、囲炉裏の真ん中で燃える赤い火を見ていることが多くなった。燃えて揺らめく炎は、ほんに、きれいだったな。
 タッチさが、時々、
 「ほれ、キヨ、火が弱くなっているぞ、どうだ、薪をくべられるか?」と声を掛けてくれた。
 キヨは、いつも「大丈夫だ」と言って、のろのろではあるが、薪をくべた。自分の仕事があるのは自分の居場所があるみたいで、うれしかったな。
 納次郎が臥雲の戸籍に養子として入籍したのは、正月も終わった一月二十日のことだった。
 タッチさはまず、自分と納次郎の実家の横山家に手紙を書き、事の次第と願いを知らせただ。その後、小多田井へ出向き、正装で正座をして頭を下げた。必死の思いだったずら。
 家を継いだ兄やの九八郎も、タッチの母さまのなみさんも、快諾してくれ、タッチさと納次郎とキヨは晴れて一つの家族となったのせ。
 それまでも三人は、弧峰院跡の本堂で川の字になって寝ていたから、親子みたいだったけれど、籍が同じになってからは、これでほんとの親子じゃ、なんで言って、そのまんまだった。
 布団が三枚から二枚になったけど、三本川には変わりはないずら。別に問題はなっかただもの。

 (次回)、連載504に続く。
 写真は、一昨日の馬籠行きの集合写真です。藤村記念館前で。この夏の記念に)

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