連載542。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多のの臥雲辰致ー7 

 父の河澄東佐が続けました。
 「うちの水車でいいもんかどうか、これから見にいくだが、その前にここで皆で昼飯を食べましょ。準備もさせてあるだいね」
 智恵さまが慌てて言いました。
 「それはありがたいですが、私は昼までにはお暇(いとま)をするつもりでまいりました」
 父が続けます。
 「まあ、そういわずに、飯をあがっていきましょ。水車小屋へ案内したり、波多腰さんが音頭をとってる新堰も見せなきゃならんでしょ」
 村や県の仕事で忙しい武居美左雄さんと、遠くから来てくれた青木橘次郎さんは先に帰り、波多腰さんと、正彦さんと、智恵さまが、我が家で昼食囲んでくださいました。
 私が給仕をしていると、正彦さんが声をかけてくれます。
 「糸さん、おはるか振りですね。お元気そうで何よりです。しかし、糸さんは、臥雲さんとはもっと久しくお会いしていないのではないですか」
 父が驚いて声を挙げました。
 「おや、なんだい、お前さんたちは知り合いだっただか」
 正彦さんと智恵さまと私は互いに目を合わせて、いたずらっぽく微笑んだのでございます。
 私が言いました。
 「智恵さま、おはるか振りでございます。以前岩原でお会いした糸でございます。智恵さまは、今、お名前が変わったのですか」
 智恵さまが応えました。
 「はい、還俗して、臥雲辰致(たっち)を名乗りました。弧峰院が臥雲山弧峰院という寺でしたから。名前は正式には辰致、ときむね、ともうします」

 (次回、連載543に続く。
 写真は、この秋の思い出)

連載541。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー6
 (明治6年春、波多の河澄家で、波多の衆が臥雲辰致の機械の説明を受けています。語りは糸)

 正彦さんが続けました。
 「その後、薩摩藩は、鹿児島紡績所の分工場を泉州堺に作り、明治三年に綿糸機械紡績を始め、この工場は政府に買い取られました。
 民間では、明治五年に東京の木綿問屋が、イギリス式の機械をいれて王子に工場を造り、木綿の紡績をはじめています。
 今の所、機械による綿紡績は、鹿児島、堺、王子の三か所だけで、これらを全部合わせても、紡錘(糸紡ぎ口)が六千、布織機が百台のみで、あとは、従来の手紡ぎです」
 梓川倭(やまと)の青木橘次郎さんが
 「そんなら、この臥雲さんの機械は、西洋の機械よりもずっと手軽で、日本の手紡ぎよりずっと沢山出来るということだいね」と感嘆しています。
 その場の驚きは大変なものでしたよ。もちろん、私も含めて、声にならないというほどです。
 正彦さんの父上の武居美左雄さんが、おもむろに口を開きました。
 「正彦からおおよその話は聞いておったが、ほんに、これは、なかなかのものだいね。
 もし、この機械がほんとに動いて、糸をどんどん紡げたら、波多村の村おこしの産業になるずら。大工にこの機械を沢山つくらせて、各家で動かしたり、あるいは紡績工場を作ってもいいさな。
 この間の二月に、筑摩権令の永山盛輝さまから、「勧業社をつくりたい」との話もあったずら。勧業社支部を波多に作って、この機械で綿糸を大量にを作る、なんてのはどうかやぁ。
 河澄さん、まずは、是非、お宅の水車を使わせてやってください」
 武居美左さんの話を聞いて、糸の父の河澄東左が言いました。
 「そうさな、日本は今、国内の綿糸の需要が急速に高まり、外国から沢山綿糸を買っているだもの、日本のためにも、この機械をこの村で動かしたいものだいね」 

 (次回連載)542に続く。
 写真は、今来日中の娘(盛岡辺り)と、5年前の娘の家の台所。友人家族との晩餐会の前に、全員が台所になだれ込んで、おしゃべりしてました。私もいます)

連載540。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー5 

 「それに引き換え、綿糸の方は、まだまだ輸入超過だいね」
 「いったい、綿糸の機械化はどうなっているだか。薩摩藩が日本で最初にイギリスから機械を買った、と聞いたことはあるだがね」
この辺りの長老の一人がそう言った時、正彦さんが若々しい声を上げました。
「薩摩藩の事情は、叔父の倉澤清也に来た品川弥二郎さんからの手紙に書いてありました。
 薩摩藩では綿糸紡績機械化の必要を感じていて、慶応三年(1867年)にイギリス製の機械を導入し、鹿児島紡績所が始まりました。
 マンチェスターのプラット社の開綿機、打綿機、梳綿機、粗紡機紡機、斜錘精紡機、堅錘精紡機を備え、イギリス人数人を雇ってはじめたのです」
 正彦さんの説明を聞いて、私の父が驚きの声をあげました。
 「なんと、外国の機械で綿を糸に紡ぐには、そんなに沢山の機械と専門家がいるだかや。臥雲さんの機械と大違いでないか」
 臥雲さんと呼ばれた智恵さまが、お答えになりました。
 「ほんに、外国の機械は沢山の行程を一つ一つ別の機械がやった後で、やっと綿糸を紡ぐようです。私の機械は、機械の筒に綿を入れれば、重力を利用して綿が自動で引き出され、撚(よ)られて巻き取られる仕組みですから、一つの機械で糸になります」
男たちは口々に感嘆の声を漏らしました。
 「あれやー、なんてこったい。おめえ様は、すごい機械を発明しただいね」
 正彦さんは、なんだか得意そうです。この機械の凄さを見出した人ですからね。
 
 (次回、連載541に続く。
 写真は孫頭の天才動画作家、松村風和くんとのポートレートです。おぐらやま農場の母子三人が我が家でラーメンを食べてくれたの。コンテナは農場からのお土産です)

連載539。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー4
 (明治6年春、波多の河澄糸の家に、波多の村役たちと一緒に武居正彦、臥雲辰致が姿を見せました)

 糸の父、川澄東左を含めた六人の殿方の所へ、お茶を届けたのは糸です。
 男たちの輪の真ん中には、機械の図面が幾枚も広げられ、智恵さまが身を乗り出して図面を指さしながら、何か説明をしていました。それぞれの手元には綿糸の束が一つずつ置かれ、それを手にして手触りを確かめている人もいました。
 一息入れるお茶の時間が始まって、年配の男たちは口々に雑談をしていました。
 「これはなかなかに立派な機械ですなあ」
 「図面をみても詳しいことはわからなんだが、今まで一本しか紡げなかったのが、一度に20本も紡げりゃ、そりゃたいしたことです」
 「そうだいね、一度に沢山紡げることが大事だじ。日本では木綿糸が大量に生産できないから、輸入額がウナギ上りと言うじゃねえか」
 「それで、綿糸の輸入を減らさねばならんと、新政府は、綿を大量に紡げる機械をイギリスから購入することを考えているだ」
 「へえ~、そうなんだかやぁ。繭から絹糸を引き出す機械は輸入している、と聞いてただが。ほれ、昨年の明治五年に、富岡に大きな絹糸繰りの官製工場ができたでねえか」
 「絹糸の方は、イギリスやフランスから機械をいれて、もう大分生産が上がっているずら。
 国産の在来の方法でも日本中が懸命に良い絹糸を作っているから、絹は輸出産業の花型だということだじ」

 (次回連載540に続く。
 写真はスマホ画面に出てきた5年前のもの。アメリカの家族と過ごした秋の、食卓の思い出)

連載538。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー3

 そんなある日、明治六年、糸が十九になった春は桜の頃でした。
 朝餉が終わり、うぐいすの声をききながら洗濯物を干していると、波多神社の方向から野麦街道を上ってくる男たちの一群が見えました。今朝、父さんが、
「今日は、朝から、四、五人の客があるだじ」と言っていた方々で、先頭が武居美佐雄さまでした。
 美佐雄さまがこの家に来ることは珍しいので「何の御用かしら」と思っていたら、美佐雄さまと並んで歩いて来るのが波多腰六左さんと、青木橘次郎さんだと分かりました。
 その三人の後ろに若い男が二人いて、あらら、一人は武居正彦さんではないですか。結婚されたせいでしょうか、立派な風情の一人前の大人になっています。そして、もう一人、どこかでみたことのあるような顔立ちの方が、、、、。

 それが六年ぶりに見た智恵さまでした。松本の平らでは廃寺になった寺が多かったので、もう、僧侶ではないかもしれませんが。
 糸はびっくり仰天で、持っていた洗濯物を、干し損ねて落としてしまったほどです。
 糸が急いで庭から裏木戸へ走ると、男の方々は玄関から家へ入る所でした。最後の智恵さまは木戸に立つ糸に気が付き、軽く会釈をして過ぎ去られました。正彦さんから、この家は糸の家ということをお聞きになっていたのですね。
 智恵さまの歩き方や物腰は昔のままで、通り過ぎた後の静かな余韻も、かつてお会いした時のまま、六年の月日が一気に飛び散ったようでした。

 (次回、連載539に続く。
 写真はおぐらやま農場の今。最近のリンゴ狩りのお客さまと。どの写真にも家族5人が写っています)

連載537。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー2
 (前回から、第8章が始まりました。語りは糸)

 糸は次の年も盆も、かく様の籠のお供をして、再び正彦さんと山麓線を歩き、山口家の法事で智恵さまにお会いしました。
 十四になった糸は再び山口家の客間で智恵さま、正彦さんと語らい、その後、智恵さまが住持となった弧峰院にもお伺いしたのです。
 智恵さまと正彦さんのお話は、時代と世の中のこと、仏のこと、平田派のことなど多岐にわたり、そばで聞いているだけでも、糸にとっては、いつもとは違う別世界に来ているような、特別な時間でした。
 やがて明治になり、世の中が慌ただしく変わりました。
 波多村の庄屋の娘として、四姉妹の長女として、母を助け、忙しくも充実した日々を過ごしていた糸にとって、岩原の思い出は、胸の中で宝石のように輝いておりました。 
 正彦さんが洗馬からお嫁さんをもらった半年後、我が家には男の子が生まれ、跡継ぎができたので、私は嫁にも行ける身になりましたが、父さんは糸を嫁に出したくはないようでした。
 「どこぞに、良い婿はいないかの」が父の口癖でしたから。 糸には
 「嫁に出たら、えらい(大変)ずら。うちにいるのが一番せ」と言っていましたし。糸は長女で、家の事がいろいろわかっているから、頼りにされていたのです。
 それに、この辺りでは、長男が家を継いでも、女の子が婿をもらって分家をし、本家の近くに住んで本家を支える、という風習もありました。
 父のお目がねにかなう婿はなかなか見つからず、糸もついつい難癖をつけ、婿取りは進んではいませんでした。

 (次回、連載538に続く。
 今日の写真には、ライトブルーの空飛ぶ車と、妖精さんの赤い服しか写っていないので、アップゆるしてね)

連載536。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー1
 (今回から、第8章・発明家がはじまります)

 安政二年(1855年)の兎の年に、信濃国筑摩郡波多村で生まれた私、川澄糸が、臥雲辰致さんにお会いしたのは、辰致さんがまだ安楽寺の僧侶だった頃でございます。その頃は名を智恵という人気の若いお坊様で、安楽寺の庫裡の典座(料理番)をしていました。
 慶応二年、十三歳の糸は、おさななじみの武居正彦さんと、岩原の山口家へ行き、山口家の盆の法要で、智恵さまを初めてお見掛けしたのです。
 その若木のようなお姿と、木魚を叩くすがすがしい横顔に目を奪われたことを思い出します。山の夏空へと吸い込まれていった、読経の美しい声を、陶然と聞きほれていましたっけ。
 その日の午後は、山口家の客間で庭を見ながら、智恵さま、正彦さん、真喜次さん、糸の四人で不思議な時間を過ごし、翌日は、智恵さまが安楽寺を案内してくださったのです。心弾む時間でした。
 糸があの時、岩原の山口家へ行ったのは、正彦さんの末の弟の真喜次さんを、山口家に届けるためでした。山口家の次期当主山口芳人さんの養子になる真喜次さんと、母上のかく様を籠にのせ、そのお供をしたのです。
 山麓線を正彦さんと一緒に歩く、という籠のお供役を、かく様が糸に振ってくださったのは、正彦さんの嫁になるかもしれないから、という言う意味があったと思います。
 でもそれは、その後数年のうちに、川澄家に跡継ぎの男の子が生まれた場合で、生まれなければ、長女の私、糸が婿を取ることになるので、まだどうなるかわからないことでした。
 でも、正彦さんと糸は、仲良しだったし、一緒に松本ご城下の飴市にも行ったし、お互いに、もしかしたら夫婦になるかも、とは思っていました。暗黙の了解ですけれども。
 糸の家に男の子が生まれなければ、そうはならない、ということも、暗黙の了解事項でした。
 あいまいと言えばあいまいな了解ですが、でも、どちらにころんでも、まあ、なんとかなるのだから、あまりこだわらない、という心持なのでした。

 (次回、連載537に続く。
 前回のクイズの答えは、おぐらやま農場の松村暁生さん。今日の写真は、そのご令嬢とご子息です。来訪の折、あんまり可愛いのでスマホカメラを向けた瞬間、二人そろってこのポーズ。なんとも息の合った仲良し姉弟なのでした)

連載535小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー80 
 (今回で、第7章・臥雲辰致の誕生ー③結婚と別れ、が終了します)

 おや、まあ、びっくり仰天ではないか。
 お気持ちはありがたいが、キヨはこう返事を書いたのせ。
 「お元気でなによりです。新聞でタッチさの活躍を読んで、とても喜んでいます。
 町暮らしのお誘いもありがたいですが、キヨは田舎の尼寺暮らしのほうがずっといいです。
 タッチさのことは今でも大好きですが、キヨは立派な尼になって、この寺の仕事をばりばりやって行ける人になります」
 キヨが岩原の臥雲辰致の戸籍から籍を抜いたのは、それからひと月後の、明治九年六月二十三日のことだった。
 お試し期間が無事終わったからせ。タッチさは三十五歳、キヨは二十二歳、納次郎は十八歳だった。
 キヨは一念を貫いてタッチさの嫁になり、一念を貫いて離縁した、ということかもしれない。それはあまり良いことではなかったかもしれが、キヨにはそうしかできなったのせ。
 タッチさと一緒に暮らしたのはおよそ二年、期間としてずれてはいるが、籍を同じくしていたのも二年だった。夫婦としては誠に未熟な歳月だったと思う。 
 しかし、結婚と別れは、それぞれ、成長の一段階だもの、未熟でも仕方なかったさ。それは、飛び切りの宝石のような価値ある段階だった。仏さまからの贈り物だったのさ。
 これからは、一念を通して、仏さまと生きてゆくべ。タッチさとも一緒に生きるさ。いつも思い浮かべて、祈っているもの。
 これからのタッチさが幸せだとしたら、それはキヨのお祈りのおかげだじ。いやいや、キヨの祈りを聞いてくれた仏さまのおかげだな。
 山を仰いで生きるのは誠に幸いなことだ。キヨは俊量さまという山と、臥雲辰致という二つの山を見つけた果報者さ。
 山を仰ぎ、思ってもらった日々に感謝しているのせ。そして、それを下さった仏さまにも感謝だな。

 (次回、連載536に続く。次回からは、第8章・発明家ー①糸が語る波多の辰致、です。
 ここでクイズ。写真の好青年は、誰でしょう? ヒントは、およそ30年前の北海道)

連載534小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー79 
 
 タッチさは、ますます忙しくなったずら。手紙も頻繁にはこなくなったさ。そんな春の終わりの五月十九日、また、青柳先生が信飛新聞を持ってやって来た。
 タッチさのことが知れて嬉しかったじ。新聞はこう報じていた。
 『弊社第百二十三号で報じました四大区波多村にて製木綿糸器機並びに製布器機とも、新発明の工夫が、いよいよ成功いたし、四十五日前に北深志町の開産社へ運搬して、該社の水車場女鳥羽川の流れに右の機械を据え、県官これをご覧なされて、お誉めがありました。
 いや、工夫というものは恐ろしいものであります。東京王子の器機などとは違い、いたって手軽で、操綿をキリキリ糸に引き出す所は、さながら婦女子が、糸操車を数十人並んで、木綿の糸を引き出すようで、また製布(ハタ)の器機が杼(ひ)を遣い(ヤリ)、梳紐(オサ)を打つ仕掛け、まあ能(よ)く出来ました。(信飛新聞第143号)』
 タッチさの二つの機械を絶賛しているではないか。
 キヨは心底嬉しくて泣いたじ。これでタッチさが波多へ出た甲斐があったというもんだ。キヨの祈りでもあっただもの。
 五月の終わりに、久しぶりにタッチさから手紙が届いた。びっくりするようなことが書いてあったさ。
 「キヨ、元気に暮らしているか。私は忙しさにかまけて手紙もかけなんだが、お前のことはしげく思い出し案じている。
 この度、私は、波多を去り、松本の開産社内に引っ越しをしたので、知らせします。
 住まいは、松本では一番賑やかな千歳橋の近くの六九町にあります。女鳥羽川のたもとです。
 キヨにも一度来てもらいたいし、できるなら、キヨとここで暮らしたいとも願っています。ご城下で暮らすのはどうですか」

 (次回、連載535に続く。
 写真は、久ぶりに会った記念に。ガン復帰のベリーショートが可愛いわね。これからも元気でね)

連載533小説『山を仰ぐ』第7章・臥雲辰致の誕生―③結婚と別れー78 

 (キヨが「尼になりたい」と言うと、俊量は「わたくしの尼生活は良いものだらけでしたから、お勧めですよ」と言いました)

 タッチさからは、時折手紙が来た。いつも
 「キヨは元気にしてるか。どうだ、こころ変わりはしてねえか。キヨの心変わりを祈っているだじ」に始まり、波多の様子、仕事の様子、これからの夢などが書いてあった。
 キヨもすぐに返事を書いた。尼寺の暮らしや、苦労していること、楽しいことなどを思うままに書き、最後にはいつも
 「タッチさが大好きだー」と記した。初めは照れくさかったけど、ほんとのことだから勇気を出して書いたのせ。そう書くと、自分がとても嬉しくなるから不思議だった。
 雪が来て年が明けると、タッチさの手紙には
 「水車に繋げる糸紡機ができたので、二月には河澄さんの水車を借りて試運転ができる運びになった」とか、
 「太糸が紡げる機械は、父さまが亡くなる前に完成しただが、その後、細糸が紡げる機械を工夫していて、それが、ついに完成したさ」とか、 
 「松本の開産社の工場が思いの他大きくなるので、松本に通うことも多くなった。女鳥羽川のほとりの六九町と言えば、ご城下の一等地だから、夢のようなことせ」などと書いてあり、忙しそうだったじ。
 二月二十九日の昼過ぎに、隣りの青柳先生が、新聞を振りかざしながら尼寺にやってきて、こう言った。
 「おーい、キヨさんはいるかや。今朝の信飛新聞にタッチさの機械のことが載っているじ」
 そして、大きな声で読み上げてくれたさ。
 『四大区波多村において、木綿製糸機並びに製布器機新発明ができ、ためしの上、器機場築造に取り掛ったそうであります。その器機は、水車仕掛け、差向、一日に日本綿百把(わ)を糸にし、布は三十反を織るそうです。追々増築して、、、、(信飛新聞第123号)』
 飛び杼を使った布織機も完成しただいね。キヨは、俊量さまや納次郎にもすぐに知らせて、手を取り合って喜んだじ。

 (次回、連載24に続く。 
 来日中の娘に会いに、東京へ行ってきました。一緒に食事をし、風呂にはいり、近況を話して、誠に幸せな時間でした)

< 2024年11>
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