連載538。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー3

 そんなある日、明治六年、糸が十九になった春は桜の頃でした。
 朝餉が終わり、うぐいすの声をききながら洗濯物を干していると、波多神社の方向から野麦街道を上ってくる男たちの一群が見えました。今朝、父さんが、
「今日は、朝から、四、五人の客があるだじ」と言っていた方々で、先頭が武居美佐雄さまでした。
 美佐雄さまがこの家に来ることは珍しいので「何の御用かしら」と思っていたら、美佐雄さまと並んで歩いて来るのが波多腰六左さんと、青木橘次郎さんだと分かりました。
 その三人の後ろに若い男が二人いて、あらら、一人は武居正彦さんではないですか。結婚されたせいでしょうか、立派な風情の一人前の大人になっています。そして、もう一人、どこかでみたことのあるような顔立ちの方が、、、、。

 それが六年ぶりに見た智恵さまでした。松本の平らでは廃寺になった寺が多かったので、もう、僧侶ではないかもしれませんが。
 糸はびっくり仰天で、持っていた洗濯物を、干し損ねて落としてしまったほどです。
 糸が急いで庭から裏木戸へ走ると、男の方々は玄関から家へ入る所でした。最後の智恵さまは木戸に立つ糸に気が付き、軽く会釈をして過ぎ去られました。正彦さんから、この家は糸の家ということをお聞きになっていたのですね。
 智恵さまの歩き方や物腰は昔のままで、通り過ぎた後の静かな余韻も、かつてお会いした時のまま、六年の月日が一気に飛び散ったようでした。

 (次回、連載539に続く。
 写真はおぐらやま農場の今。最近のリンゴ狩りのお客さまと。どの写真にも家族5人が写っています)

< 2024年11>
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石上 扶佐子
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