連載180。小説『山を仰ぐ』第4章俊量(良)-②堀金へー7
 (前回良は、人の有り難さを感じ、祖父母の案内で、これから住むことになる家へ導かれます)

 木戸をくぐりながら、先頭のおじいさまが振り向いて言いました。
 「右手が青柳先生の家だいね。この木戸は裏口だが、庵(いおり)に行くには、こっちのほうが便利だでね。おらほうの庵は中庭の奥だじ。ちっと、先生に挨拶しとこうかいね」
 父の友人の青柳先生の家は、おじいさまが手を振っていた表て道に、立派な門を構えた大きな家でした。門に続く家塀の内側には高い木が並んでいます。たぶん、檜(ひのき)です。ここは屋敷の北側なので、北風除けの屋敷林なのでしょう。
 母屋の巨大な萱葺(かやぶき)屋根の下は、古い農家の作りで、町場の家とはずいぶん違います。大きな家と広い敷地に驚きました。
 隣りの諏訪神社との距離もかなりあります。お隣りといっても、松本中町通りの町家とは大違い。わたくしはきょろきょろと、敷地内を見回しました。
 木戸の近くには土蔵や農具置き場や物置があり、母屋近くには雪隠(トイレ)が。中庭のあちこちに庭木が植えられています。松や桜や木蓮はもとより、梅や柿や栗や枇杷や胡桃。実りが待ちどうしくなるような木でした。
 中庭の池はかなり大きかったですね。家を建てる時、家壁を塗る土は庭を掘って賄(まかな)うので、大きな家を建てると、大きな池が出来るのだ、と聞いたことがありましたから、その池の大きさを見た時、家の規模も分りました。
 雪の残る池の周りは、見目麗しく整えられています。その時はまだ黄色の福寿草だけでしたが、初夏が来れば、色とりどりの花が楽しめるのが目に見えるようでした。ツツジやアヤメやオダギリ草などでしょうか。
 
 (次回、連載181に続く。
 写真は10年前。農場時代の食卓。いつも、大勢でにぎやかに。わたしは食事担当でした)

連載179。小説『山を仰ぐ』第4章俊量(良)―②堀金にてー6
 (前回は、堀金に到着した良を、常念岳を背にした道で、祖父母が出迎えました。)

 祖父母が生きているということは、誠にありがたいことです。わたくしのまわりには、父さまや母さまを亡くされた方も多いし、ましてや祖父母が二人ともまだ元気でいるなんて、奇跡のようでございました。家業が薬屋だったことと、関係があるかも知れませんが。
 人が一人いて、そこから受ける喜びは、いくらお金を積んでも得られるものではありませんね。ですからね、人の命を救おうと、家財道具を売ってきた新井屋薬店は、間違いではありませんでした。そのことを、祖父は良く知っていたのです。家をつぶしてでも客の命を助けろ、との方針を明確にしたのは、祖父でしたもの。
 でも、、、そう言えば、、、祖父は
 「自分の命を投げ出してでも人を助けろ」とは言ったことはありません。どちらかと言えば
 「おれが死んだら、困る人がようけいいるだじ、死ぬわけにはいかねえ」なんて感じでした。おれは、周りの人の役に立っている、という矜持がありましたね。また、そのように生きていましたし、、、、、。
 二人が立っている道の端には、山からの雪解け水が勢いよく流れ下る溝がありました。おじいさまが言いました。
 「さあ、こっちだ。ここからは、青柳先生の敷地だいね」
 おじいさまは、小川のような堰のような、青柳家の前の流れを飛び越え、おばあさまが飛び出してきた畑の小道を進みます。しばらく行くと木戸があり、木戸の奥には、大きな萱葺屋根の農家が。母屋の南に中庭が広がっていました。

 (次回、連載180に続く。
 写真は今朝の市民タイムス一面。市長が「国保税がもっと安くならないだろうか」と諮問し「このくらいなら安くできます」との答申で、議会で通れば今年度から引き下げになるそうです。原資は制度改革で生まれた余剰金。答申では「すぐに値上げはしないようにね」と言われ、市は「はい、3年は引き上げません」と。)

 今日は、Mウィングで、『松本平ゼロカーボン・コンソーシアム設立記念シンポジウム』がありました。会場参加とオンラインで。
 松本平ゼロカーボン・コンソーシアムというのは「2030年までに松本平の脱炭素を実現する目的で、多くの団体が力を合わせて取り組むための共同体」です。産・学・官・市民が協働する組織で、それが設立された、記念すべき会があったのです。会長の信大副学長林靖人先生は「この会の誕生の喜びを噛みしめている」と言われました。
 初めの挨拶で臥雲市長は
「世界は今、エネルギーの転換期にあります。不穏な情勢を受け原油の高騰などがありますが、後戻りするのではなく、エネルギー転換を加速させることが、日本の経済の再生と、地方の自立に繋がります。
 このコンソーシアムが設立されたことにより、ゼロカーボンの拠点が定まりました。5年で、小発電施設を完成させる他、2030年にはトップランナーとして日本をリードする団体になっていることを祈念します」と言っていました。
 基調講演が、超面白かったです。小田原市にある、2つの地産地消型エネルギー会社のお話しでした。2つとも、地元民間企業が共同出資で始めた(37社と、9社)エネルギー会社で、講演者の原正樹さんは、その一つ湘南電力の若き社長さん(写真2)。
 この方たちが小田原でやっていることは、
 ①再生エネルギーで電気を作り出し
 ②それを販売し、
 ③蓄電し、災害に備える。ことで、その過程で、
 ○脱炭素、○利益、○街の活性化、○福祉などへの分配、○電気自動車による蓄電、○移動可能な自動車による配電、などを生み出しています。
 電気の地産地消は、他から電気を買う(年間300億円の)お金の流出を食い止める事ができます。と。ワクワクのお話しでした。
 その後のシンポジウム『松本平のゼロカーボンと地域の価値創造』の参加者は、原正樹さん、(信州大学から)林靖人・茅野恒秀・中島恵里(元長野県副知事)先生、市から臥雲義尚さん。
 小田原市で、何故、こんな凄い事(研究者からみたら世界一だそうです)が出来たかというと、
①経験を形にしていること
②事業の担い手が継続し成長しながら進んで来たこと
③ビジネスモデルの細部まで計算し、リスクを考え、具体性をもって、皆で作り上げて来たこと
④地域の人との繋がりを、やりながら作って来たこと
⑤街造りの視点で、自分ごととして進めたこと
⑥夜の作戦会議が楽しかった事、色々な世代が関わり、まず仕事を担う中で、人材が育つこと、
⑦市民には、主体として関わってもらう事、などがでていました。
 臥雲さんは「松本の価値は、グリーンとクリーンの緑美しい清涼感と、市民の進取の気性ですから、小田原が10年かけて積み上げたものを、集中し5年で成果を出したいと思っています」と。






連載178。小説『山を仰ぐ』第4章俊量(良)―②堀金にてー5
 (前回は、良の父が「堀金に行くには、梓川を渡ったら北へ進み、十ヶ堰に出たらそれに沿って」と教えました)

 わたくしは、父に言われたとうりに歩きました。松本の御城下は、すでに雪が消えていましたが、平らを北へ進むに連れ、山に近づくに連れ、日陰に残る雪が多くなっていきます。飛騨の山々はまだまだ氷の国ですが、その手前の前山は、芽吹きの薄桃色でぼおーっと霞み、笑っているようでした。
 諏訪神社が終わった四つ辻を左へ曲がった時です。突然、常念岳が真正面に見えた時でした。
 常念へ続くその道の二町(220㍍)ほど先に、おじいさまの姿が見えたのです。なんと!
 おじいさまは、西山のほうへなだらかに登るその道の真ん中で、大きく手を振っています。
 そうですよ、まるで常念を背負って立つ応援団長ように。
 あら、まあ! あんなに、大きく手を振って。
 おじいさまが、道沿いの畑に向かって大声をあげると、畑からおばあさまが飛び出してきました。
 あら、まあ! 今度は二人で、手を大きく振っています。おばあさまは、ほお被りをしていた手ぬぐいを外して手に持ち、手ぬぐいをブンブン振り廻しています。
 孫の到着を、こんなにも歓迎してくれるなんて、、、、。
 わたくしは、もちろん、全速力でその道を駆け登りましたよ。おじいさまー、おばあさまー、と叫びながら。
 「よう来た、よう来た。良が家を出る日と時刻を、父さまが先に知らせてくれたでね」
 おじいさまがそういうと、おばあさまは
 「そいでもんで、朝から二人でそわそわしてね、畑の土をひっくり返ながら、どちらか一人は必ず道に出て、良の来るのを待っていただいね」と付け加えました。

 (次回、連載179に続く。
 写真は一昨日のNHKニュース画面)

市長記者会見の日。
 ①今日の松本のコロナ新規感染者は47人。(後で情報を追加します)
 ②環境省の「脱炭素先行地域」に松本市が選ばれました。
 1) 小水力発電施設事業(環境)
 2)グリーンスローモビリティ事業(観光)
 3)木の駅事業(暮らし)に対して。
 市が提案した事業費26億円のうち、3分の2の17億円が国から補助されます。これにより松本市全域の民間企業の参加の呼び水にしたいです。
 これは、高いハードルを越え、72の応募の中から選ばれた事に意義があります。乗鞍高原を中心に、スーパーシティ構想で準備した事や、ゼロカーボンパークに選ばれたことなどが、活きたともいえます。
 5ヵ年計画の間に、設計をし、許認可をし、実際に作り、6年目から(もっと早くてもいいですが)上記の3つの事業が稼働できれば、と思っています。
 ③松本市ゼロカーボン実現条例(仮称)案を、6月議会に提出します(骨子は写真参照)。
 ④松本市の脱炭素プロジェクトの4柱(は写真を参照)
 記者の質問に答えて 
 ⑤事務上のミスは、システムの移行他、さら注意をしなければなりません。今まで公表しなかったミスの情報開示も、積極的に公表するようにしたので、数は増えるかもしれませんが、公表していきたいです。
 ⑥大型連休は、上高地や美ヶ原などの山岳や屋外で、楽しんで下さい。人がいるところはマスク、手指消毒他感染防止も徹底して。
 ⑦昨日、市医師会、市歯科医師会、松本市薬剤師会の代表が、松本城指定喫煙所の撤去を申し入れましたが、この事は、昨年11月に議会での答弁と協議を経て「松本市健康推進協議会」で進めて来たことです。この協議会には、市医師会、市歯科医師会、市薬剤師会も参加されており、段階的に、検討承認されていたので、昨日の突然の申し入れの経緯がわかりません。
 花岡医師会会長さんは、昨日「汚(けが)らわしい施設が隣りに出来たことは許し難い」と発言されたようですが、隣りというのは医師会の隣りという意味のようです。今回の申し入れが、三師会の総意なのかと言う疑問を持ちました。
 誤解を生んだ経緯には、こちらの説明不足と報道の仕方があると思います。
 突然、喫煙所が出来たわけではなく、今までは、何処でも喫煙出来たエリアが喫煙禁止エリアになったからです。禁煙エリア拡大は、以前から進めなければならなかったこと。 
 (石上補足。今までは、同じベンチに座っていた人がタバコを吸っても何も言えなかったけれど、4月1日からは、「ここは禁煙エリアですから、あそこの喫煙所で吸って下さい」と言えるようになったということ。開智学校も含めお城周りで)。
 密閉の喫煙所でも、人の出入りのたびにドアが開けば、横に煙は流れるので、煙ゼロを目指すのではなく、分煙をきちんとする、と言う趣旨で、進めていきたいと思っています。



連載177。小説『山を仰ぐ』第4章俊量(良)―②堀金にてー4。
 (前回、千国街道を北へ進む良には、ある確信がありました。没落した新井の家族は、だれも不幸にはなってはいなかったからです)

 空に響くモズの声、道の端に残る雪の間に花開く福寿草、枯れ野に芽生える野草の新芽が、私の背中を押していました。
 飛騨の山々から流れ落ちる幾本もの川が、広大な扇状地をつくり、松本藩の平らが広がっています。川は地下に潜(もぐ)ったり地表に出たりしながら、全てが犀川に注ぎます。その犀川と飛騨の山々の間を、千国(ちくに)街道が北へと通っているのです。
 家を出る時、父が言いました。
 「犀川と犀川に注ぐ幾つもの川は、しょっちゅう溢れるでね、そのたんびに流路が変わるのせ。だでね、千国街道は、川の流れの変更に合わせて、簡単に道筋が変わる。北へ行く道は幾本もあるのせ。迷子になると困るでね、梓川を渡ったら、梓橋のすぐ西の太い道を、真直ぐ北へ行きまっしょ(行きなさい)。
 一里行けば、拾ヶ堰につき当たるずら。あとは、拾ヶ堰に沿って、西へ行くのせ。常念岳が真向かいで、そりゃ、きれいな山波だじ。
 拾ヶ堰のはたを半里も行くと、堰は大きく北へ曲がるから、一緒に曲がって北へ進みましょ。もう堀金村だわ。諏訪神社が堰に沿って見えてくるずら。忘れずに、お参りしていきましょ。
 諏訪神社を通り過ぎると、四辻があるだじ。その辻を西山の方へ、左に曲がるのせ。道に沿って諏訪神社の境内が終わると、最初の家が青柳先生の家だいね。大きな立派な家だじ、すぐに分るずら」
 
 (次回、連載178に続く。
 今日は美ヶ原高原の開山祭でした。写真2は、今日の王ヶ頭ホテルからの眺め。写真1は去年の美ヶ原高原開山祭で。二年とも快晴です[どちらも、臥雲義尚(松本市長)のフェイスブックの投稿から])


連載176。小説『山を仰ぐ』第4章俊量(良)―②堀金にてー3 
 (前回は、数え十四の春に、ふるさとを出て行く良の気持ちでした)

 三十年前の春の朝、松本から堀金へと一人で向かうわたくしの行く手には、真白い飛騨の山脈がありました。山は一歩進むごとに一歩近づいて、刻々と迫ってきます。日毎に常念岳の雄姿を仰いで暮らす、その始まりの日でした。
 これから何があるかわからないのに、その時、なぜ、不安がなかったかと言えば、わたくしは、それまで一緒に暮らした家族から、大きな教えをもらっていたからです。
 少し前まで、家は大きな商家で、薬を扱い、お城の御用もし、書画俳人が集う楽しい場所でした。しかし、それがなくなっても、だれも不幸にはならなかったのです。
 そうですね、激変ではありませんでしたし。飢饉の数年をかけて、自らの意志もあって失っていったのですから。
 家も、商売も、役職も、お金も失いましたが、不幸ではありませんでした。かえって、心をかけあう人が増え、実質的な切実な助け合いの中で、それぞれが以前よりもっと、本当の自分で生きられるようになったのではないでしょうか。
 父も母も蔵の暮らしに満足していました。自分の町で自分のやるべきことがより鮮明になり、その役割りを喜んで引き受けているのです。
 兄も、尊敬できる先生に巡りあい、希望だった蘭医学を学ぶことができました。
 祖父母がどのように暮らしているかは、堀金に行ってみなければ分りませんが、でも、気に入って暮らしているにちがいない、と思えました。
 ならば、わたくしにとっても、家の没落という運命の変化は、良いことだったにちがいない、と。
 そのような確信を道連れに、私は、その早春の朝、女鳥羽川を渡り、田川を渡り、木曽川(後の奈良井川)を渡り、千国(ちくに)街道(後の糸魚川街道)を北上したのでございます。

 (次回、連載177に続く。
 孫たちが一番喜ぶおばあちゃんのご馳走は、三色そぼろ丼なので、今回もそれでした。おいし~~って、言ってくれましたよ)

連載175。小説『山を仰ぐ』第4章俊量(良)―②堀金にてー2
 (前回、良は、平らを北へ、堀金への道を歩き始めます。悩んだ末の結論でした)

 悩んで出した結論でも、父さまと母さまを離れて、おじいさまとおばあさまの所に行くなんて、たいした違いではないかもしれませんね。それでも、少しは違います。この少しの違いがその時に私には重大問題でした。
 人は一度に多くは変われないものです。命の維持や安全が何よりも優先されてしまうから、どうしても、今のままの方がいい、と思ってしまいます。ですからね、少しずつ違っていくのが良いですね。少しずつしか変われないといってもいいでしょうか。少しずつなら、ずっと変わり続けていても良いくらいです。
 激変に直面することもあります。自分を見失うようなひどいことが起こることも、災害とでも呼べるようなことに、どうしようもなく巻き込まれることも。そういう時は、これは大変なことだと自覚し、周りに支えてもらわなければなりませんよ。周りも心して支えなければ、、、、。激変を越えて行くのは大変なことですから。
 少しずつにしろ、激変にしろ、向かう方向だけは、はっきりしておいたほうが、楽です。わたくしのその時の方向は、独り立ちをする、ということでした。できれば、ゆっくりと。
 父と母に宣言をした節分が過ぎると、旅立ちの準備にまい進しました。力が湧いてきて、日常の一つ一つが踊るようでした。先は見えないのに、新しい世界に出て行くということが希望なり、今までと同じ場所で暮らしていても、張り合いがまるで違うのです。
 人はつい、守り姿勢で、今までと同じ方が良い、と思ってしまいますが、変わってゆく日々には、守る以上の喜びがありますね。
 身の回りのものを整理し、必要な衣類を整え、近所の人に挨拶をし、懐かしい場所にもいきました。またいつでも帰ってこられるのに、もう帰らない、みたいな意気込みでした。実際、その後三十年近くを、堀金で暮らすことになりましたが、、、。

 (次回、連載176に続く。
 写真は、二人きょうだいの、今と8年前)


連載174。小説『山を仰ぐ』第4章俊量(良)-②堀金にてー1 
 (今日から、第4章ー②堀金にて、が始まります)
  
 天保十年(1839年)、わたくしが松本の御城下を出で、平らの北の堀金に向かったのは、明るい陽射しが飛び跳ねる、早春の朝のことでございます。三寒四温が始まっていました。冬を越せたことがありがたく、安堵の思いもあります。行く手の空は鏡のように晴れ、雪と氷に覆われた白い山々が、北の果てまで続いておりました。
 二重の三角がいわれもなく気高い常念岳を望みながら、女鳥羽川に沿って西へ歩き、女鳥羽川が田川と合流した後は、田川に沿って北西へ進む道です。川辺の土手や道端には福寿草の黄色が、地から湧き出る光のように、春を告げていました。
 この時、常念岳は真向かいにあります。風はまだ切るように冷たい、春とは名ばかりの朝の、白い常念岳です。その年の小正月、町の子どもたちの三九郎祭りで、わたくしは、空を切るようなこの常念を、女鳥羽川のほとりから見上げていましたっけ。
 深く思うことがありました。三九郎で焚きつけた正月飾りの火柱が勢いよく立ち昇り、もうもうとした煙が目に浸みて、泣きたいような、落ち着かない気持ちになったのでございます。
 「春が来たら、堀金のおじいさまとおばあさまの庵(いおり)に行きたい」
 わたくしが父と母にそう告げたのは、節分の翌日、立春の朝のことでございます。
 もとよりそれは、父と母の言い出したことですけれど、、、。
 でも、父と母の提案にただ従うのではなく、自分で考えて悩み、自分で決断したことが大事でございましょう? 自分で選んだということが。同じ結論だとしても。

 (次回、連載175に続く。
 写真は昨夕のNHKのニュースから)

連載173。小説『山を仰ぐ』第4章俊量(良)―①中町時代―33
 (前回は、若者の祭りの小正月で、子供達の一番の楽しみの三九郎がありました。十四になった良は、もう子供ではないことを感じます)

 女鳥羽川の川辺に立ち昇る、三九郎の煙に沿って空を仰ぐと、煙の向こうに、雪に覆われた長い山脈が見えました。正月の青空の下で、反射するように白く輝いています。仰ぐに足りる、遠く高い山々でした。
 北に伸びるあの山脈の麓(ふもと)に堀金があります。堀金のおじいさまやおばあさまの庵ならば、あの山々はもっと近くに、もっと気高く見えるに違いありません。
 高い山を、もっと真近で見てみよう。
 天へ向かう若木のように、私も伸びて行こう。
 見知らぬ新しい土地で、暮らしてみよう。 
 生まれた町を出て行こう。
 心が延びていくような思いの中で、しっかりとそう思い、わたくしの正月が終わりました。
 家の没落から一年が過ぎていました。天保の大飢饉はもう六年も続いています。社会の未曾有の危機と、家の消滅を通して、わたくしは子供から大人への扉を開いたのでした。
 心の向きが変わると、親から独立したい気持ちが芽生えてきます。親に甘えたり、うちとけたりしたくない思いで、親に対してぎこちなくなったりしました。
 わたくしは親とは違うのだ、別の人間なのだから、当然別の道を歩んでくのだという思いが、日に日に強くなりました。天保十年(1839年)の春は、もうすぐそこでした。節分が近づいていたのでございます。

 (第4章俊量(良)―①中町時代、が終了です。次回、連載174は、第4章俊量(良)―②堀金にてー1、になります)

< 2022年04>
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石上 扶佐子
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