連載158。小説『山を仰ぐ』第4章俊量(良)―①中町時代-18 
 (前回は、菅江真澄が洗馬の釜の井庵に逗留することになった経緯でした)

 わたくしの祖父も、祖父の父も、浅田先生も、菅江さまや熊谷先生のお仲間と、歌を詠み、本草学を語り、諸国の暮らしを聞き論じ、洗馬から発せられる大きな進取の知識に吸い寄せられて、釜の井庵に通ったのでございます。松本から本洗馬までの三里半をいとわず歩いたのですから、若い日の知識欲というのはすごいものですね。
 私の祖父は二十年前に齢八十で亡くなりました。祖父にとっては六十年以上も前の、十代の頃の思い出でした。今から八十四年も前のことを、かつて祖父がわたくしに語り、わたくしもまたこのように語ってしまうのは、可児さまや菅江さまを囲んで過ごした、若者たちの時間の素晴らしさが、そうさせるのでしょうね。可児さまも菅江さまも、他所からお出でのまれびとでおられましたし。

 天明の大飢饉が始まろうとしていた当時(1783年)から数えて五十五年後、松本中町通りの新井屋薬店が人手に渡ったのは、天保九年(1838年)のことでした。洗馬の熊谷家も松本の新井家も、代が変わっておりましたが、わたくしの父が、俳句仲間の熊谷珪碩先生に事情を話すと、珪碩先生は二つ返事で兄の書生を承諾して下さったのです。
 数え十五の春、兄は蘭方医学への夢を胸に、意気揚々と洗馬へ向かったのでございました。
 この熊谷先生はね、十二年後の嘉永三年(1850年)、信州で初めて、当時死病と恐ろしがられていた天然痘の、集団予防接種を成功させた方ですよ。このことは、また後で話しますね。

 (次回、連載159に続く。 
写真は手塚治虫の絵。緒方洪庵が種痘をしています)

< 2022年04>
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石上 扶佐子
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