連載156。小説『山を仰ぐ』第4章(俊量・良)ー①中町時代―16 
 (前回は、良の兄が行くことになるかもしれない熊谷家のことで、美濃国の可児永通が婿になった所まで。)

 慶応三年(1867年)の今から見れば、ずいぶん前のことです。天明三年(1783年)、熊谷医家を継いだ可児永通さまを頼り、菅江真澄という方が、熊谷家の食客として本洗馬の釜井庵に逗留しておりました。
 菅江さまは歌人でしたが、国学も草本学も納めていたので、医家の熊谷父子とは話しが弾み、うちの祖父やその父、さらに浅田済庵先生の父上もお仲間に入れていただいたそうです。
 菅江さまは、その後、越後や秋田や蝦夷など北の国々を歩いて、村や町の姿を書き残された方です。生涯沢山の書物を書かれました。熊谷家には、『伊那の中道』『信濃旅寝濃記』『ふでのままに』『いほの春秋』の4冊が残されていて、祖父は「大変面白く読ませてもらった」と言っておりましたよ。
 なぜ菅江さまが熊谷家に逗留したかの理由を、わたくしは祖父から聞いたことがあります。祖父はこのように言っていました。
 「菅江真澄先生は三河吉田の生まれだいね。若い頃は岡崎や名古屋で、国学や本草学や写生を学んだだよ。先生は、諸国の民の暮らしに大層興味があり、それを見たさに三十歳の時、故郷を飛び出したということじゃ。
 まずのお目当ては、天龍村坂部の熊谷家だったのせ。何故かというとね、先生が十八の頃、『熊谷家伝記』という本が編纂されたのを、風の便りに聞いていたからだったのだと。
 それは、天龍村坂部の熊谷家のご当主が、代々の家の事や、土地の事、郷や村の事、暮らしの事、事件や災害や何やかやを、事細かく書き記したもので、先生は、旅の始めに、是非見ておきたかった、と言っておったのせ」

 (次回、連載157に続く。
 写真は現在の洗馬の熊谷家・生々堂。昨日の投稿に添付すればよかった、と反省)

< 2022年04>
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石上 扶佐子
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