連載557。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー22 

 開産社の開所式が終わり、ひどくお疲れの様子で岩原へ戻られた辰致さまは、七日後に、まだ疲れの残ったお顔で、波多に帰って来ました。
 専売特許願いがどのように書き直されたか、糸にはわかりませんが、それは辰致さまによって清書され、明治八年四月十日に、松本城二の丸の筑摩県本庁に提出さたとのことです。
 帰宅された辰致さまが言うには、
 「受付窓口の人は、『制度がないのに申請するなんて、前例がないけれど、ともかくも預かって検討してみます』と言っていました」と。
 その後、この件に関して、国は「専売特許」は出さず、辰致さまに「公売の許可」というのが与えられたのみでした。当然、専売特許制度の復活はなかったのです。
 公売の許可、、、といっても、、、ねえ、、、。
 辰致さまの機械の事業については、波多腰六座さまが主導しておられ、川澄家は辰致さまの生活係という立場でしたから、詳しいことはわかりません。でも、辰致さまの事業が推進しはじめたことは、よくわかりました。
 辰致さまの事業は、波多に発展ののろしが上がったようなできごとで、村が活気づいているのです。波多で動かす予定の新発明の糸紡機を作るために、波多の大工との打ち合わせがはじまりました。
 水車に連動させる機械と、手回しの機械を幾つか製作するのですが、辰致さんは次から次へと改良の考えが沸いてくるので、 大工さんは「対応が大変だ」とこぼしていました。変更があるし、一台一台進化してゆくし、で。

 (次回、連載558に続く。
 今年のクリスマス・イヴは、お友達に誘われて、近所の東教会のキャンドル礼拝に預かりました。毎年恒例という、ヴァイオリンとフルートが奏でる宗教音楽が素晴らしかったです。奏者はご夫妻で妻はフルートのプロ、夫は医師とのこと。私の三男がヴァイオリンをやっていたので、スラリとした若い男性の肩で響く生の音色に、昔を思い出してホロリ。充実した1年に感謝です。みなさまも、良いお年をお迎えください)

連載556。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー21 
 (正彦がしたためた「専売特許願い」の草稿を、糸が頑張って読んでいます。文はその後半。)

 そもそも、太糸を手紡ぎする多くは、技術力の低い女性の業で、その撚(よ)り賃はわずかに、二抱(かかえ)一銭にも満たぬ故に、上手下手に関わらず、いたずらに迅速を欲して、自然と拙い仕事になります。諺(ことわざ)に言う『無能業(業に値しない)』ということになるのです。
 太糸手紡ぎを上手に行う婦女でも、果たして、裁縫や紬の熟練工の賃金を超えることはできません。
 私の作った機械は玩具のように見えますが、良くご覧いただき、その後にあまねく広め、その流れによって旧習を洗徐し、これをもって、国の恩に報いたいと思っています。
 しかしながら、私は微力ですので、その造営をすることができず、他の人の協力をお願いするしかありません。
 どうか、期限を限り、この機械を造って利益を得ようとする者より、きわめて当然の謝金を請けることができるように計らってください。
 これをもって、私の長年の疲弊が補なわれることを請うものであります。
 誠に恐れ多いことですが、平身低頭、お願いする次第です。

  第九大区七小区  
   安曇郡烏川村岩原耕地
 明治八年四月十日 臥雲辰致
 永山盛輝殿』            

 と、まあ、糸の拙い読解では正彦さんの「専売特許願い」の草稿は、こんなことが書いてあったのでございます。

 (次回、連載557に続く。
 少女の14歳の誕生日を祝いに、東京へ行ってきました。写真は、そのパパとママ、と二人の仲良し姉妹です。ケーキは、ママの手作り)

連載555。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー20 
 (正彦が書いてくれた草稿に目を通すと、辰致は急いで岩原に帰っていきました)

 辰致さまがいなくなって数日した頃、父の河澄東左が、正彦さんが書いた「専売特許願い」の草稿を持ってきて、
 「ほれ、糸、お前もこれを読んでみまっしょ。臥雲さんと正彦さが何をしたいだかが分かるじ。お前の読解力の試験にもなるずら。
 読んでみればわかることだが、専売特許の制度がないのに、専売特許を申請するのだから、それはそれは勇気と情熱と気遣いのいることだいね」と言いました。
 あら、まぁ、糸に読ませてくれるなんて。びっくりです。
 でも、糸も興味がありましたので、漢字ばかりがやたらと多い、二十七行の漢字読み下し文に挑戦したのです。わからない漢字、熟語はありましたが、おおよそ、こんなことが書いてありました。

 『臥雲辰致が謹んで思いますに、皇運が興起すれば、都も地方も文化に浴し、億兆の精霊はたちまち潤い、すこやかさが確かなれば自主を保ち、優しさが保たれた世にあっては自由を安んじます。このような慈愛を受け入れない人はいないでしょう。
 私たちは愚昧の民かもしれませんが、しばしば欧米各国の説話を聞き、敏ではなくとも個人的に、粉骨砕身思慮を巡らし、一つのことを発明しました。
 それは、人力を省く器械を造り、国の開花に応えようと心を尽くし、精を労し、月を積み月を重ね、ようやく、足袋底に用いる太糸を製する機械を落成したのです。
 この機械はおよそ二十五貫目(94キロ)の重さで、これに水車をつなぐと、一人の婦人が一日に三十抱(ほう)の綿を紡ぐことができます。
 このように計算すると、普通の水車で、大量の綿糸を作ることができます。

 (次回、連載556に続く。
 Merry Christmas !!!
 みなさん、クリスマスおめでとございます!!!
 一日遅れ、ニューヨーク時間のご挨拶になりましたが。
 感謝しつつ、希望を共にしつつ)

連載554。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー19
 (機械を持ち波多に来て、半月を忙しく過ごした後、松本まで機械を見せに行って帰ってきた辰致は、疲労困憊でした)

 父の河澄東左は重ねて言いました。
 「今日、岩原にお帰りになるとしても、なるべく早く、また波多へ戻って来て欲しいだいね。
 波多の寄り合いでは、臥雲さんの機械を使って、できれば水車で、木綿糸を量産することが決まっただもの。これからは、その事業がはじまるだから。開産社の事業として、波多で稼働できればと思っているだ。
 そして、次に来るとき、是非、木綿布織機も持ってきてほしいだじ。まだ発明途中でもいいだでね。
 その前に「専売特許願い」も申請せにゃならんね。武居美佐雄さんの話だと、松本の筑摩県本庁で受け付けてくれそうだと」
 辰致さまは、正彦さんが書いた草稿を読み初めました。
 それは、漢文に小さなカタカナの文字が挿入された読み下し文で、一行に二十数文字の字列が二十七行も連なった長い文でした。正彦さんが薫陶を受けた平田派は、漢文の読み下し文で学問をしていたそうですから、お得意のことだったのでしょうね。
 正彦さんが書いた「専売特許願い」の草稿を読み終えると、辰致さまは言いました。
 「ありがたいことです。正彦さんの思いが良く伝わってきます。私の思いと同じですが。
 私はこの文をよく検討し、清書をして、松本の県庁に提出に行かねばなりません。が、今はまず、岩原に帰ります。
 特許の申請は急がねばなりませんから、なるべく早く、布織機を持って波多に戻るつもりです。この件は、波多に戻ってから進めます。
 すみませんが、それまで、河澄さまで預かっていただけませんか。東佐さまにも読んでいただきとうございます」
 辰致さまが、半月ぶりに岩原に帰って行かれたのは、その日の夕方のことでした。

 (次回、連載555に続く。
 昨夜は「柏原フォークダンスの会」のクリスマスパーティでした。
 童話の中のような、夜のひなびた踏み切りを渡ると、北へ進む道は森へと続いているようで、その暗い森の中に、突然、明るく輝く広場が出現。
 お伽の国のダンスホールで、全40曲を踊り、帰途につくと、外は小雪が舞う、幻想的な白い世界でした)

連載553。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー18  
 (二日後、正彦が「専売特許願い」を清書して持ってきた時、辰致は、開産社の開所式で松本に行っていて留守でした)

 三月十四日に正彦さんから「専売特許願い」の草稿を受け取ったのは糸でございます。辰致さまがいないので、私はそれを父に預けました。
 辰致さまが松本からお戻りになったのは、十五日の夜遅くで、再び機械を引いて帰った辰致さまは、ひどくお疲れのようでした。
 帰った辰致さまが、挨拶のために母屋に立ち寄った時、父は
 「正彦さんから『専売特許願い』の草稿を預かっているだが、お疲れのようだから、明日にするずら」と言い、辰致さまも
 「そうお願いします」と言って土蔵へ入っていかれました。 翌朝遅く、
 「どうしても起きられませんでした」と言いながら、うつむき加減に母屋へ挨拶に来た辰致さまの顔色はひどく悪く、黒ずんで見えました。父は
 「開所式が終わったら岩原へ戻られると聞いていただが、もう少し休んでからの方がよいだじ。今日帰るのは無理ずら」と言いましたが、辰致さまは、
 「ありがとうございます。しかし、岩原には家族を残しており、キヨはまだ病いの最中で、尼寺に預けておりますので、一刻も早く戻りたいと思います」とおっしゃいました。
 父の河澄東左は、預かっていた正彦さんからの草稿を手渡しながら、辰致さまに言いました。
 「奥様のお加減が良くなけりゃ、仕方のないことだ、気を付けて帰ってくだされ。
 しかし、それつにけても、岩原と波多の往復はえらい(大変)ずら。私らは皆、臥雲さんには、波多に住んでほしいと思っとるだいね。
 昨日の開産社での機械の評判も良く、開産社も資金の提供を考えてくれそうだで、これからは、松本に出る機会も多くなるずら。なら、なおさら、波多で暮らしていたほうが便利だじ」
 辰致さまは、つぶやくように、
 「そうですね、岩原へ戻ったら、今後のことを、家族と相談してみます」と言われたのでございます。

 (次回、連載554に続く)

連載552。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー17

 正彦さんが、待ってましたとばかりに言いました。
 「この度、私が急ぎ波多へ戻ったのは、もし、臥雲さんに私の志(こころざし)の意図を理解していただけるなら、私が専売特許願いの草稿を書きましょう、と思ってのことです。今日、請願文の概要を打ち合わせできたら、一両日のうちに漢文の草稿を書いてお持ちできます」

 正彦さんの言葉を聞いて、辰致さまのお顔が輝いたように見えました。同席の一同からも、ほ~、という感嘆の声がもれています。
 辰致さまが
 「よろしくお願いします」と頭を下げ、正彦さんが
 「では、食事が終わりしだい、打ち合わせをしましょう」と言うと、お二人は、そそくさと食事を済ませ、私らに食事のお礼と席立ちの詫びをいうと、あっと言う間に土蔵へと立ち去ってしまいました。 
 夜半に正彦さんが三溝の実家に帰り、「専売特許願い」の下書きを持って再度お見えになったのは、二日後のことです。
 あいにく、辰致さまは松本にお出かけで、お留守でした。開産社の開所式が翌三月十五日にあるので、松本まで新発明の機械を運んでいったのです。
 開所式には、筑摩県の永山盛輝権令はじめ、県下の大区長三十名がお揃いになるということです。開産社の前身の勧業社の頃から、社長は筑摩県の三十の大区長が全員就任し、出資もすることになっていたからです。
 そのほかに開産方と呼ばれる関係者が六十七人もいて、民間の市川量造さんや、県の官吏の北原稲雄さんのお名前もありました。
 その開所式の前に、辰致さまはお越しの方々に見てもらうために、実演をしながら機械の説明をするというのです。波多村からの推薦と開産社からの要請があって実現したことでした。

 (次回、連載に続く。
 写真は塩入久さんのフェイスブックより。ブエナビスタは、たぶん?、松本で一番高級なホテルです。ちなみに、うちは、たぶん?、松本で一番安い宿です)

連載551。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー16 
 (辰致の機械が岩原から波多に運ばれ、人の目に触れることを知った武居正彦は、急遽、東京から波多へ戻って来ました)

 正彦さんは続けます。  
 「あれから、臥雲さんの機械は百の改良を経て、今は、素晴らしいものができましたね。二年前の正月と同じ程の感動です。  
 日本での特許制度は、明治三年に一度公布されましたが、明治五年には時期尚早(じきしょうそう)ということで取り下げられました。
 これは、全く承知できません。平田学を学んでいる、草莽の志士たちがつくりあげた新政府のすることとは、とても思えません。
 臥雲さんのこの機械が特許をとれないことは、大問題なのです。日本のアークライトになれないではありませんか。
 それで、私は、今、政府は特許の制度を下ろしているとしても、そのことに抗議する意味も含め、なんとしてもこの機械の『専売特許願い』だけは提出したいのです。
 万が一、これを機会として、専売特許制度が復活するかも知れないですから」
 一気に語る正彦さんの熱意に、一同は箸の手も動かず、唖然としておりました。
 まず口を開いたのは辰致さまです。箸を置き、居住まいを正し、正座に座り直して言いました。
 「正彦さん、そこまで考えてくださって、まことにありがとうございます。私もかねがね特許が取れないのは残念とは思っていましたが、そこまでは考えが及びませんでした。どうせダメなものに力を注いでいる余裕はない、という思いでしょうか。
 今私は、機械の打ち合わせや、数日後に迫る開産社の開所式に、機械を持ってゆく話などに忙殺されており、とても、専売特許願いを書く暇がありません。
 それに、その申請は県を通じて国にするのですから、公文書としての格式が必要と思われますが、機械にかまけている私には、漢文で文章をつくることはできません。そのお話は、今は、ちょっと、私には無理かと、、、、」

  (次回、連載552に続く。
 写真は、長野県フォークダンス連盟55周年パーティーのスナップ集。楽しさがあふれています。今日は松本フォークダンスの例会で、クリスマスの曲を練習します。夕方6時半から、東部公民館で)

連載550。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー15 

 三月の初めに、新発明の機械を持って、辰致さまが波多に来られた時、三溝の武居美左雄さんが、東京の正彦さんに、そのことを知らせたので、正彦さんは中村正直先生の英学校『同人社』の休みを繰り上げて、急ぎ波多村に帰ってきました。
 なぜならば、臥雲辰致の新発明の機械が世に知られる前に、武居正彦さんには、どうしてもしなければならない志(こころざし)があったのです。
 東京から信州波多村へ到着した正彦さんは、三溝の実家に荷物を置くとわらじの紐もそのままに、急いで上波多の川澄家まで足を運び、辰致さまに会い来ました。
 まず、機械の実物を見に土蔵へ行き、辰致さまが実際に糸を紡ぎながら、機械の説明をしたようです。
 夕餉の時間でしたので、土蔵から出て来た正彦さんにも母屋に上がってもらい、食事を共にしました。父や私への挨拶もそこそこに、正彦さんは辰致さまに切り出しました。
 「二年まえの正月に、中村正直先生が訳したスマイルズの『西洋立志伝』を携えて、帰農したばかりの臥雲さんを岩原にお尋ねした折、前年の暮れに出来上がったばかりの機械をみせてもらい、私は大そう感動しました。ここに日本のアークライトがいる、と。
 アークライトは極貧にもめげず、自動紡績機械を完成し、特許を取得して後の事業に繋げ、イギリスを豊かにしたのです。同じ年にジェーズ・ワットも蒸気機関の発明で特許を取っています。
 私は二年前に雪に閉じ込められた岩原の寺跡の家で、生まれたばかりの臥雲さんの機械を見た時、感動と同時に私がすることが明確に浮かびました。
 まずこの機械の特許を取り、臥雲さんを経済的に支え、その後この機械を世に知らしめる、ということです」

 (次回、連載551に続く。
 写真は、静岡の従妹から届いた、クリスマスの手作りシュトーレンとクッキーとワイン。彼女はステンドグラスの作家さんでもあるから、プレゼントもアーティスティックです。ありがと!)

連載549。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー14 

 辰致さまが次に波多にお見えになったのは、三月初めのことで、荷車に茶だんす程の大きさの自作の機械を積み、納次郎さんと二人で現れました。機械にはブリキの筒が24本ついていました。
 開産社の開所式が迫っていたので、村の衆の意見をまとめるために、実物の機械を見ながら説明する必要があったのです。納次郎さんはすぐにお帰りになりましたが、辰致さまは開所式が終わるまでの半月ほど、波多にご滞在でした。
 機械をうちの土蔵に入れたので、辰致さまも土蔵に寝泊まりし、三度の食事は土蔵の隣の母屋でうちらと一緒でした。
 辰致さまは、給仕をする私の手から飯椀を受け取る時、軽く会釈をしてくださいましたが、その他は糸が近くにいることさえ気づかぬという風でした。 
 父との打ち合わせや、機械の見学者への説明、機械の試運転と紡績の実際などで、多忙を極めていたのです。
 前年に合併した波多村の戸長になった武居美佐雄さんは、同時に村議会の議長も務め、穂高神社の「神風校社」の副社長もして多忙だったので、波多村での機械の扱いと事業の進展は、副戸長の波多腰六左さんが主導することになりました。
 武居美左雄さんは主に官との交渉に関わり、辰致さまの生活のことは父河澄東左が担当ということで。
 そのため、辰致さまは上波多の我が家に滞在し、波多での寄り合いの折は、下波多の波多腰家へ出向き、開産社の開所記念に係る会合は松本へ出向く、という忙しさでした。
 その他、実際にやる暇はなくても、辰致さんならば、バッタンを取り入れた臥雲式綿布織機の発明も頭を離れなかったのでないかと思います。
 そして何よりも大切な事として、「専売特許願」の作成と提出、という大仕事があったのでございます。

 (次回、連載550に続く。
 写真は、今年のフォークダンスの、クリスマスパーティのプログラムです。12月25日(水)安原公民館で、午後1時半から4時半まで。全44曲を踊ります。どうぞ、お越しください)

連載548。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー13 
 
 明治八年が明けると、父はしきりに
「臥雲さんはどうしているかやぁ。バッタンを使った布織機は出来たかやぁ」とつぶやき、ついに、二月半ば、辰致さまへ手紙を書いたそうです。
 「水車のことや、綿紡糸の機械や、布織機のことやら、上京した正彦さんが『特許の申請をしたらどうか』と言っていることや、いろいろ話があるから、一度、早目に、波多に来てくれないかやぁ」というようなことを。
 辰致さまは、二月の下旬、波多にお見えになりました。
 もともと一泊の予定でしたので、限られた二日間、辰致さまは波多の大勢の人と会い、大工さんも参加する寄り合いも開かれ、集まった人達は真剣にこれからの波多のことを考えておいででした。
 一番大きなことは、
 「今年の三月十五日に、勧業社から名前を変えた開産社が、松本に置く本社の開所式を行う」ということで、「開産社でも、臥雲さんの機械が話題になっている」というのです。それで
 「開所式の前に、是非とも、臥雲さんの発明した綿糸紡ぎの機械の実物を、波多の皆で見たい」と。
 辰致さまは
 「その件は家の者と相談してきます」と言い、次の日の夜には岩原へ帰られました。キヨさんの具合いがすぐれない、と漏らしていたので、この先どうなることかと、糸は案じていたのでございます。
 
 (次回、連載549に続く。
写真は、「山を仰ぐ」教会。穂高教会牧師毛見先生撮影です)

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