98歳の父が、今朝亡くなりました。
 最後の数時間までしっかりと生きた、大往生の堂々たる人生でした。
 お父さん、あなたの娘で幸せでした。ありがとう。また、会いましょうね。

連載 390。行 小説『山を仰ぐ』第 6 章ー①ー7
 (前回は、俊量の要請に答えて幕末の時事解説をする武居正彦の語り。隣国清と英国とのアヘン戦争のいきさつで、今回もその続きです)

 清が破れた天保十三年(1842年)は、知恵さまの生まれた年ですが、日の本が深い所で大きく転換した年でもありました。清の悲惨さを目のあたりにし驚愕した幕府は、異国船打ち払い令を緩和し、異国船に薪や水の補給を許可しましたからね。大転換でした。
 アヘンの戦さの途中で左遷された清の林則徐は、西域の辺境で農地改革を行い、善政で住民から慕われ、太平天国の乱では再度大臣に任命されたのですよ。この人は大した政治家です。掃きだめに鶴、のようなお方ですね。
 その林則徐が、アヘン戦争が終わった天保十三年(1842年)十二月に、親友の魏源(ぎげん)に依頼をして作らせたのが『海国図誌』でした。
 これは、林がアヘンでエゲレスと対峙するために集めた世界事情の情報集で、異国の情勢や地図を多数掲載し、軍隊と産業の必要などを訴えています。
 『海国図誌』は、清ではほとんど読まれませんでしたが、ペルリ来航のあと、日の本では沢山の翻訳本が出回り、盛んに読まれました。私の父も持っています。佐久間象山も吉田松陰も熟読していたと聞きます。

 (次回、連載391に続く。
 写真は和服を着てくれた孫。りりしいでしょ。ダメダ、どうしても自慢したぃ〜。姉は元県ヶ丘高校生徒会役員、弟は現〇〇中学校生徒会副会長)

連載 389。小説『山を仰ぐ』第1章−①ー6
 (前回、正彦は、慶応3年の混乱の世相の初めは、清と英との阿片戦争にあるとして、時事解説の糸口としました。前回に続き正彦の語りです)

 林則徐は、賄賂には一切なびかず、アヘンの密輸を取り締まり、押収した膨大なアヘンを処分し、密輸をしない誓約書を各国に迫りました。毅然とした態度で臨んだのです。
 これに反発したエゲレスが、軍隊をひきいて清の沿岸に攻め込むと、清王朝は恐れをなし、エゲレスに立ち向かう林則徐を、西域の辺境に左遷しました。賄賂で儲けることができなくなった清の役人が、林を陥れたともいわれています。
 林の後任者は、エギリスにペコペコしましたが、エゲレスは本国からもインドからも軍隊を呼びよせ、清の揚子江以南の海沿いの町々を次々と攻め、壊滅的な破壊に見舞われた清は、天保十三年(1842年)に敗北したのです。
 その後、清は不平等な南京条約を結び、香港の割譲までしたのに、アヘンはそのまま流入し続けました。
 さらに悪いことに、清は銀を大量に失うアヘンの流入を食い止めるために、自国でアヘンの生産を始めたので、アヘンはさらに国内に広まり、清は内部からも崩れていったのです。
 このアヘンを巡る戦さと清国の敗北は、日の本を震撼させました。清は、我が国が長い間先輩として仰いでいたお隣の国ですからね。
 信濃国松代の藩士佐久間象山は、藩主の真田幸貫の命で、この戦さを研究し、天保十三年の十一月には「海防八策」を上書しています。
 内容は、日の本は急ぎ軍艦をつくり、水軍を鍛え、銅の流出を押さえて大砲を作り、全国に砲台を整え、士気精鋭な軍隊を養成せよ、と言うようなこと。ペルリが浦賀に現れる十一年も前のことです。
 
 (次回、連載390に続く。
 写真は、日本滞在の最後に、また松本に来てくれた娘と、ニューヨークへの旅の始めのバスストップ。バイバイ、元気でね。)

連載 388。小説『山を仰ぐ』第6章、幕末から維新へー①ー5
 (前回、俊量から、先の見えないこの時代の解説を頼まれた正彦は、襟を正して話し初めました)

 「今(慶応3年、1867年)になってみれば、日の本を揺るがし始めた発端は、二十七年前に起きた、清とエゲレスのアヘンを巡る戦さではなかったかと思います。
 大陸では明(みん)が滅亡し、清(しん)になって二百年が経っていました。旧態依然の清王朝は、腐敗が進んでいて、多くの役人は賄賂で動いています。清の成立よりも徳川の世の方が早く出来上がっていますからね、日の本のほうがもっと旧態依然かもしれませんけど。どうでしょうか。
 エゲレスは、今から二百六十年も前の関ケ原の頃に、東インド会社を設立し、インドで貿易を初めました。清の始まりより早い時期ですよ。東インド会社は貿易だけではなく、後には軍隊も持ち、エゲレスのインド支配の実行部隊でした。
 清は自由貿易に扉を開かず、腐敗していたので、エゲレスはそこに目をつけ、インドで仕入れたアヘンを、清国に売り付け始めたのです。輸入禁止でも、賄賂があれば密輸できる国でしたから。
 今から七十年前のことです。その後二十年足らずで、インドから清国へ密輸されるアヘンは、輸入品の第一位になりました。隣りの国のことながら、日の本は驚いて「異国船打ち払い令(1825年)」を出しましたね。文政の頃のことです。
 エゲレスはアヘンの密輸でボロ儲けをし、銀が主体の清国の経済で、清の銀の八割がエゲレスに流れていたのです。銀の高騰で物価が急上昇し、清の民の困窮が進みました。
 困り果てた清は何度もアヘン禁輸令を出しましたが、取り締まりの役人は賄賂の汚職まみれですから、少しも効き目がありません。
 そうした時に、林則徐(りんそくじょ)という立派な人が、清のアヘン禁輸大臣に任命され、エゲレス商人の密集地の広東に着任します。天保十年(1839年)のことですから、日の本では、打ちこわしや一揆や餓死者が続出した天保の大飢饉が収まってきた頃のことでした。

 (次回、連載389に続く。
 昨夜、松本に戻りました。東京では父の家の模様替えや片付けに大奮闘。部屋にぎっしりあった本を除き本棚にCDを並べたら、父は大喜びでした。写真2は、もうじき99歳の父が介護の娘をパチリ)

連載 387。 小説『山を仰ぐ』第 6 章、幕末から維新へー①ー4
 (前回は、石工の新吾さんの助けや多くの人の祈りの中で、立派な僧になった栄弥(智恵)に、俊量は期待します)

 安楽寺は山の中のお寺です。智恵さまがいた六年間は、修行の静かな日々でした。一方、日の本は、国の全体を動かすような大きな変化に見まわれていました。
 都から遠く離れたこの信濃の国の尼寺にも、世相の騒がしさが伝わってきます。堀金の弧峯院は、平らの中程の村の中ですからね。
 でも、何がどうなっているのか、良く分からないところもあります。京や江戸で切り合いが起きて人が死んでも、どうしてそうなるのか、と。そもそも、なぜ、日の本はこんなことになっているのか、と。
 今(慶応三年・1867年)、山の神社の境内でおこひるを囲みながら座っている方々のお顔を見渡し、わたくしは武居正彦さんに声をかけました。
 正彦さんは、先ほど、わたくしの長話が始まる前に、知恵さまに咸臨丸の福沢諭吉とか、留学をしている方々のことを話題にしていたので、わたくしは長らく抱えていた疑問をぶつけてみたのです。
 「正彦さん、日の本は、どうしてこんなに先の見えない世の中になったのでしょう。今、何が起きているのでしょう。説明してくださいませんか」。
 正彦さまは素直な方ですね。こう、述べられました。
 「なんと、俊量さまからご指名だなんで、嬉しゅうございます。
 私、武居正彦は、父も祖父も熱心な平田派学者ですから、平田先生が生きておられた頃から、日の本の危機を聞いており、私も最近平田門下になりました。
 まだ若輩者ですが、庄屋をしている父は幕府や藩の方針を教えてくれますし、世相に詳しい祖父はその評価をしてくれますし、時々家にお見えになる叔父の倉澤清也さんのお話しや、倉澤さんと文通の頻繁な、京都在住の長州武士品川弥二郎さんの文面などから知ったことなら、お話しできると思います」
 正彦さんは、襟もとを直しながら座り直し、話し初めました。

 (次回、連載388に続く。
 介護や家の模様替えが長引いて、まだ、父の家にいます。途中、息抜きに息子の家に行って来ました)

連載 386。 小説『山を仰ぐ』第 6 章、幕末から維新へー①ー3
 (前回、岩原の安楽寺に預けられた栄弥は、6年後、無事に僧侶になりました)

 智順和尚のお力が大きかったと思いますが、安楽寺に頻繁に出入りをしている、新吾さんの口添えも大きかったのではないでしょうか。ほら、岩原の石工さんですよ。
 新吾さんは、くりくりと元気いっぱいだった十四歳の栄弥さんを知っていましたし、その栄弥さんの類い稀な才能も理解していましたから、安楽寺で、和尚さんの助けになり、智恵さまを励まし続けたのではないでしょうか。
 新吾さまの他にも多くの方の祈りがありました。横山家の皆さま、青柳家や松沢家の皆さま、堀金弧峯院の者も皆、毎日必死に祈ったことでした。
 お祈りというのは、良く効きますね。呪詛は慈悲の流れに逆行しますから効きませんけれど。
 父上も兄上ももちろん母上も、栄弥さんの聡明さを分っていたので寺に預けたと思いますが、それは正解でしたね。入門は遅かったですが、これからも精進を重ね、知恵さまは立派なお坊様になられることでしょう。
 今だって、先輩で年上の智海さまを追い越して、弧峰院の住持に選ばれましたもの。わたくしは、期待し楽しみにしています。

 (次回、連載387に続く。
 新年あけましておめでとうございます。
 私は年末年始を、今年の3月になれば満で99歳なる父と過ごしています。昨日の大晦日は、甥っ子が妻と息子を連れて父に会いに来ました(写真をパチリ)。
 父には、日ごろはあまり会っていない孫が6人、ひ孫が11人いるので、名前がこんがらがっています。娘二人の名前も、しょっちゅう間違っていたものね。中学生が英語の単語を覚えるように、孫、ひ孫の名前の暗記にいそしんでいました)

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石上 扶佐子
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