2019/06/30
ミサでの神父様の言葉。
「人々のために、自分を捧(ささ)げ、命を捧げて、愛してゆく覚悟が必要です。神の恵みも必要ですが」。
ひゃ〜、大変な事になった!。
神父さまはそうかも知れないけど〜〜、、、。
ミサ後の(エンディング)勉強会で同席した紳士に、上記の感想をボヤいたら
「西洋では、司祭や司教に成るのは、貴族や王族の御曹司で、大切に育てられたのち、
「命を捧げて人々に仕え、愛しなさい」と教育され、若き聖職者が誕生するのです」と。
ひぇ〜〜!
生まれてから今まで、ずっと貧しかった人には、当てはまらいのではないかと、、、。
写真は、小林憲宏さんの絵。お城東北の外堀井戸の傍で、お菜を洗う人たち。
「人々のために、自分を捧(ささ)げ、命を捧げて、愛してゆく覚悟が必要です。神の恵みも必要ですが」。
ひゃ〜、大変な事になった!。
神父さまはそうかも知れないけど〜〜、、、。
ミサ後の(エンディング)勉強会で同席した紳士に、上記の感想をボヤいたら
「西洋では、司祭や司教に成るのは、貴族や王族の御曹司で、大切に育てられたのち、
「命を捧げて人々に仕え、愛しなさい」と教育され、若き聖職者が誕生するのです」と。
ひぇ〜〜!
生まれてから今まで、ずっと貧しかった人には、当てはまらいのではないかと、、、。
写真は、小林憲宏さんの絵。お城東北の外堀井戸の傍で、お菜を洗う人たち。

2019/06/30
ミサでの神父様の言葉。
「人々のために、自分を捧(ささ)げ、命を捧げて、愛してゆく覚悟が必要です。神の恵みも必要ですが」。
ひゃ〜、大変な事になった!。
神父さまはそうかも知れないけど〜〜、、、。
ミサ後の(エンディング)勉強会で同席した紳士に、上記の感想をボヤいたら
「西洋では、司祭や司教に成るのは、貴族や王族の御曹司で、大切に育てられたのち、
「命を捧げて人々に仕え、愛しなさい」と教育され、若き聖職者が誕生するのです」と。
ひぇ〜〜!
生まれてから今まで、ずっと貧しかった人には、当てはまらいのではないかと、、、。
写真は、小林憲宏さんの絵。お城東北の外堀井戸の傍で、お菜を洗う人たち。
「人々のために、自分を捧(ささ)げ、命を捧げて、愛してゆく覚悟が必要です。神の恵みも必要ですが」。
ひゃ〜、大変な事になった!。
神父さまはそうかも知れないけど〜〜、、、。
ミサ後の(エンディング)勉強会で同席した紳士に、上記の感想をボヤいたら
「西洋では、司祭や司教に成るのは、貴族や王族の御曹司で、大切に育てられたのち、
「命を捧げて人々に仕え、愛しなさい」と教育され、若き聖職者が誕生するのです」と。
ひぇ〜〜!
生まれてから今まで、ずっと貧しかった人には、当てはまらいのではないかと、、、。
写真は、小林憲宏さんの絵。お城東北の外堀井戸の傍で、お菜を洗う人たち。

20日ぶりに、1日、家。
片付けや裁縫は進みましたが、読むべきモノをやっつけるまでは行きません。豪雨近しの日は、眠いしねぇ〜。
写真1は、小林憲宏さんの絵。真ん中の通りの奥に、小さく人力車が走っています。
2は、隣人から頂いたアンズ。種は果実酒につけて杏仁酒に。ありがたや〜。
午後1時からのEテレのドキュメンタリーで、戦前に、韓国で牧師の子として生まれた、田内さんと言う男性の、壮絶な人生を紹介していました。
父は始め、7人の孤児を引き取って孤児院を始めましたが、日本の植民地支配下にあった韓国では、孤児が次々に発生し、毎日押し寄せように入所してきては、毎日餓死による死者がでていたそうです。
孤児たちと全く同じに育てられた幼い田内さんは、忙しく働く母の愛情が欲しくて、つらく悲しい思いを重ねたのだと。
その母は、毎日死んでゆく子供を憐れんで、せめてもの弔いに、身体を綺麗に拭いてやり、死んだ子供の側で一夜を眠ったのです。
多い時は500人以上の子供がひしめき合い、一つの布団に、大勢が足だけ入れて眠る日々。
父は食料を探しに町へ行ったまま、もどらず、母が園長になって切り盛りし、数千人の子供たちを育てました。
敗戦になり、日本人だった母は暴徒に襲われそうになりましたが、孤児たちが園長の周りを囲んで阻止したのです。
隣人からのいただき物を前に、恵みは隣人をとおして降りて来るのだ、と痛感します。
「隣人を愛せよ」が、神の掟(おきて)であるのが、うなずける瞬間。「隣国を愛せよ」も掟だと思います。

片付けや裁縫は進みましたが、読むべきモノをやっつけるまでは行きません。豪雨近しの日は、眠いしねぇ〜。
写真1は、小林憲宏さんの絵。真ん中の通りの奥に、小さく人力車が走っています。
2は、隣人から頂いたアンズ。種は果実酒につけて杏仁酒に。ありがたや〜。
午後1時からのEテレのドキュメンタリーで、戦前に、韓国で牧師の子として生まれた、田内さんと言う男性の、壮絶な人生を紹介していました。
父は始め、7人の孤児を引き取って孤児院を始めましたが、日本の植民地支配下にあった韓国では、孤児が次々に発生し、毎日押し寄せように入所してきては、毎日餓死による死者がでていたそうです。
孤児たちと全く同じに育てられた幼い田内さんは、忙しく働く母の愛情が欲しくて、つらく悲しい思いを重ねたのだと。
その母は、毎日死んでゆく子供を憐れんで、せめてもの弔いに、身体を綺麗に拭いてやり、死んだ子供の側で一夜を眠ったのです。
多い時は500人以上の子供がひしめき合い、一つの布団に、大勢が足だけ入れて眠る日々。
父は食料を探しに町へ行ったまま、もどらず、母が園長になって切り盛りし、数千人の子供たちを育てました。
敗戦になり、日本人だった母は暴徒に襲われそうになりましたが、孤児たちが園長の周りを囲んで阻止したのです。
隣人からのいただき物を前に、恵みは隣人をとおして降りて来るのだ、と痛感します。
「隣人を愛せよ」が、神の掟(おきて)であるのが、うなずける瞬間。「隣国を愛せよ」も掟だと思います。


2019/06/28
「桑ばたけ」という美しい曲があります。
1955年、米軍基地用地として、強制的に桑畑を奪われる事に反対した「砂川闘争」の中から生まれた歌です。
桑畑の 繁る葉は
亡き母の 背に負われ
苗植えた 昔から
とぶ鳥さえ 馴染んでたが
転調してゆくメロディが、この上もなく美しいので、私の「心の歌」でした。
その歌を久しぶりに口にしたのは、先月25日の中央図書館の地下室でのこと。
その日、3Fの会議室で、手塚英男先生のお話しの中に「砂川闘争」と言う言葉がでて来た瞬間から、我が心の歌が、頭の中で回り始めたのです。
それで手塚先生が図書館の地下室をご案内下された折り、
「先生、桑ばたけ、と言う歌をご存知ですか」と、思わず聞いてしまいました。答えは、イエス。
そして、なんと、先生と一緒に、「桑ばたけ」の一節をその場で歌ったのでした❣
ボソボソと、歌詞も途絶えがちではありましたが。心の歌を一緒に歌って頂けた喜びが、深く胸に残りました。
それで、今日は、万難を排して「手塚先生を囲む会」へ。たまたま、以前からの友人が声を掛けて下さったのです。
Mウイングであったその「福祉の会」は、12人ほどが輪になって座り、テーマについて、誰でもがどんどんモノを言う、誠にのびやかな会でありました。
写真1は、小林憲宏さんの絵。今噂の旧開智学校と、名物ポストと、人力車。
2は、隣人が遠出のお土産に下さった「イチジク」の幼木。イチジクがわが心の果実と、覚えていて下さったのです。
3は、若い隣人からのプレゼント。彼女の庭の愛らしい花です。
桑ばたけは 今荒れて
爆音は わら屋根に
裂けるほど たたきつけ
桑ばたけは 吹きさらし


1955年、米軍基地用地として、強制的に桑畑を奪われる事に反対した「砂川闘争」の中から生まれた歌です。
桑畑の 繁る葉は
亡き母の 背に負われ
苗植えた 昔から
とぶ鳥さえ 馴染んでたが
転調してゆくメロディが、この上もなく美しいので、私の「心の歌」でした。
その歌を久しぶりに口にしたのは、先月25日の中央図書館の地下室でのこと。
その日、3Fの会議室で、手塚英男先生のお話しの中に「砂川闘争」と言う言葉がでて来た瞬間から、我が心の歌が、頭の中で回り始めたのです。
それで手塚先生が図書館の地下室をご案内下された折り、
「先生、桑ばたけ、と言う歌をご存知ですか」と、思わず聞いてしまいました。答えは、イエス。
そして、なんと、先生と一緒に、「桑ばたけ」の一節をその場で歌ったのでした❣
ボソボソと、歌詞も途絶えがちではありましたが。心の歌を一緒に歌って頂けた喜びが、深く胸に残りました。
それで、今日は、万難を排して「手塚先生を囲む会」へ。たまたま、以前からの友人が声を掛けて下さったのです。
Mウイングであったその「福祉の会」は、12人ほどが輪になって座り、テーマについて、誰でもがどんどんモノを言う、誠にのびやかな会でありました。
写真1は、小林憲宏さんの絵。今噂の旧開智学校と、名物ポストと、人力車。
2は、隣人が遠出のお土産に下さった「イチジク」の幼木。イチジクがわが心の果実と、覚えていて下さったのです。
3は、若い隣人からのプレゼント。彼女の庭の愛らしい花です。
桑ばたけは 今荒れて
爆音は わら屋根に
裂けるほど たたきつけ
桑ばたけは 吹きさらし



1時からの市議会に、誰よりも早く入場したいと意気込んて、早めに家を出ました。
途中の信号待ちで、昨日聞いた「旧開智学校を建てた立石清重さんの家は、今も桜橋西南角にある」を思い出し、その角の奥を覗き込んでいたら、お友達に会いました。
何をしているのか聞かれ、こうこうこう言う訳と話すうちに、2人で立石家(たぶん)を一巡り。
彼女の行先は私と違う方向だったのに、私が市役所へ行くと言ったら、市役所まで、付き合ってくれました。
それでついつい口が動いた分、足が遅くなったようで、あらら、大変、議場に入ったのは、私が最後で、開始1分まえ。悲しい、、、。
議会は定刻に始まり、
1)建設環境委員会の報告と、それを「異議なく可決すべきものといたします」、で、2分。
2)経済地域委員会の報告と「異議なく可決すべきもの」で3分半。
3)教育民生委員会は4分。
4)新庁舎建設建設特別委員会が1分半。
5)総務委員会は、案件が4つで4分。
これで「異議なし、質疑なし、意見なし」で
1時17分から採決し、賛成多数で可決されました(ちなみに、委員会報告では2〜3名の議員さんが反対、請願の採択では、8名の少数派がおられました)。
その後、市からの提案が2件出されて可決し、2件の意見書が読まれて採択されました。
市長が閉会の挨拶をされ、1時37分に終了、今季の議会は閉会となりました(市議会は年4回、次は9月)。
内容は、読まれた文字の意味しか分からず、理解には程遠いのが悔やまれます。
「新たな過疎地対策法の制定に関する意見書」の中に、過疎地域が果たしている全体への貢献度は極めて大きいから、全体で過疎地域を支援しなければ、とありました。
あっけない、物足りない、寂しい気分でぼんやり帰路を歩いていたら、行き道で出会い、遅刻しそうになった、友人との成り行きを思い出し、「あの他愛のない、バカバカしい時間があって良かった」と思いました。
帰り道、信大病院の1Fの廊下で、小林憲重さんという方の絵に巡り会い(写真)、温かな松本の人と町を、食い入るように見入り、感謝。
この展示は明日の午前中までです。



途中の信号待ちで、昨日聞いた「旧開智学校を建てた立石清重さんの家は、今も桜橋西南角にある」を思い出し、その角の奥を覗き込んでいたら、お友達に会いました。
何をしているのか聞かれ、こうこうこう言う訳と話すうちに、2人で立石家(たぶん)を一巡り。
彼女の行先は私と違う方向だったのに、私が市役所へ行くと言ったら、市役所まで、付き合ってくれました。
それでついつい口が動いた分、足が遅くなったようで、あらら、大変、議場に入ったのは、私が最後で、開始1分まえ。悲しい、、、。
議会は定刻に始まり、
1)建設環境委員会の報告と、それを「異議なく可決すべきものといたします」、で、2分。
2)経済地域委員会の報告と「異議なく可決すべきもの」で3分半。
3)教育民生委員会は4分。
4)新庁舎建設建設特別委員会が1分半。
5)総務委員会は、案件が4つで4分。
これで「異議なし、質疑なし、意見なし」で
1時17分から採決し、賛成多数で可決されました(ちなみに、委員会報告では2〜3名の議員さんが反対、請願の採択では、8名の少数派がおられました)。
その後、市からの提案が2件出されて可決し、2件の意見書が読まれて採択されました。
市長が閉会の挨拶をされ、1時37分に終了、今季の議会は閉会となりました(市議会は年4回、次は9月)。
内容は、読まれた文字の意味しか分からず、理解には程遠いのが悔やまれます。
「新たな過疎地対策法の制定に関する意見書」の中に、過疎地域が果たしている全体への貢献度は極めて大きいから、全体で過疎地域を支援しなければ、とありました。
あっけない、物足りない、寂しい気分でぼんやり帰路を歩いていたら、行き道で出会い、遅刻しそうになった、友人との成り行きを思い出し、「あの他愛のない、バカバカしい時間があって良かった」と思いました。
帰り道、信大病院の1Fの廊下で、小林憲重さんという方の絵に巡り会い(写真)、温かな松本の人と町を、食い入るように見入り、感謝。
この展示は明日の午前中までです。




2019/06/26
毎回楽しみな「街ウオーク」の日。朝9時ひろば集合で、今日は「旧開智学校」まで、大人の遠足でした。
途中、いくつかの湧き水の井戸に立ち寄って、水分補給の一休みも、いい感じ。
国宝予定の旧開智学校は、建物もそうですが、この学校が行って来た事や、近代の教育を伝える展示の中身が国宝級なので、国宝になるのでしょう。一度や二度ではとても見きれません。
午後は、明後日の町の公民館での「出張ふれけん」の、お茶菓子の買い出し。
私の後に健康推進のお役についてくれた、若いお母さんと一緒で幸せでした。この町での、彼女の幸いを祈りつつ。
青き梅
熊手で落とす 夕暮れは
巡る季節を
胸に折り込む

途中、いくつかの湧き水の井戸に立ち寄って、水分補給の一休みも、いい感じ。
国宝予定の旧開智学校は、建物もそうですが、この学校が行って来た事や、近代の教育を伝える展示の中身が国宝級なので、国宝になるのでしょう。一度や二度ではとても見きれません。
午後は、明後日の町の公民館での「出張ふれけん」の、お茶菓子の買い出し。
私の後に健康推進のお役についてくれた、若いお母さんと一緒で幸せでした。この町での、彼女の幸いを祈りつつ。
青き梅
熊手で落とす 夕暮れは
巡る季節を
胸に折り込む


2019/06/25
かつてのお役の皆さんと、ランチをしました(写真4)
午後は、市議会の「中核市移行特別委員会」へ。
市の政策部から、A4・5ページの「中核市移行に向けた取り組みについて」の要点が読み上げられ、
数名の議員さんから「市民への説明は、団体単位で出張もして下さい」とか、「保健所での獣医師の採用は何人くらいですか」というような質問が出、他の委員会審査と同様に、委員長が
「他に意見がなければ、承認、と言うことで集約します」、と言い、
全員(10名くらい)が「意義なし」と言い、審査会は終わりました。
この間30分足らず。今回も、あっけない印象です。
これで、6月10日に開会(議案説明)された市議会は、17日18日19日の一般質問と、その後の4日間の委員会審査が終わりました。
27日午後1時30分から(審査報告・質疑・討論・採決をして)閉会になります。残す所あと1日、しっかり勉強しましょう。
写真1は、今夕の我が家の東窓から見た空と山。
2は自慢のビワの木、
3はご近所さまから頂いた「ほう葉巻き」。木曽のお土産、美味しかったわ❣。
針を持つ
静かな時の 長ければ
人の賑(にぎ)わい
恋しくもあり


午後は、市議会の「中核市移行特別委員会」へ。
市の政策部から、A4・5ページの「中核市移行に向けた取り組みについて」の要点が読み上げられ、
数名の議員さんから「市民への説明は、団体単位で出張もして下さい」とか、「保健所での獣医師の採用は何人くらいですか」というような質問が出、他の委員会審査と同様に、委員長が
「他に意見がなければ、承認、と言うことで集約します」、と言い、
全員(10名くらい)が「意義なし」と言い、審査会は終わりました。
この間30分足らず。今回も、あっけない印象です。
これで、6月10日に開会(議案説明)された市議会は、17日18日19日の一般質問と、その後の4日間の委員会審査が終わりました。
27日午後1時30分から(審査報告・質疑・討論・採決をして)閉会になります。残す所あと1日、しっかり勉強しましょう。
写真1は、今夕の我が家の東窓から見た空と山。
2は自慢のビワの木、
3はご近所さまから頂いた「ほう葉巻き」。木曽のお土産、美味しかったわ❣。
針を持つ
静かな時の 長ければ
人の賑(にぎ)わい
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今日の市議会は「市役所新庁舎建設特別委員会審査」。
議員さんから「市民の意見を聞くように」「エリア全体を考え、城を中心に発展出来るプランを」などが、要望として出されただけで、簡単に終わりました。
午後6時からは、臥雲義尚さんの駅前演説です。
直前まで豪雨の予報で、黒雲怪しく、冷たい風と雨もポツリ。でも、演説が始まったら、すう〜〜と明るくなり、陽射しも見えました。演説が面白かったからね。
14年前に松本市となった四賀地区は、合併後に人口が1000人減り、最後のスーパーが撤退し、交通の便も悪くなり(市内まで片道500円かかり通学生の負担が大きく、バスの回数券は四賀の役場では買えない)、不便になってさらに人口が減少、の悪循環です。
しかし、市全体を画一的に考えず、多様性を尊重すれば、この図式から脱却し、人が集まり賑わって暮らすことが出来るかも知れない、と。
例えば四賀村と同じ時期に合併した旧安曇村は、合併前、0歳から英語に接する機会・気風がありました。
中学校では放課後、外国人の先生が、英語を教え、村はそのことを誇りにしていました。
しかし、合併後は、英語の先生の給料を市が認めなかったので、その教育文化は消滅。市の教育はどこも同じでなければならない、というのが理由でした。
しかし、このような教育は、今、東京などでは憧れのまとです。もし四賀村の英語教育が存続し成果があがっていたら、市内の他の地区にも伝播し、子育て世代の家族が大勢移住してきて、過疎は無かったかもしれません。
人口が減り不便になり、更に人口が減る、というのは、明日の松本の姿でもあります。
これから一緒に松本を支えて行く外国由来の人々には、日本で最先端を行く日本語教育の場を提供し(松本なら可能)、共に手を取り合って末永くこの街を繁栄へと導きたい。
訪れる観光客やレジャーの人々には、何度も来たくなるような、長居をしたくなるような、環境を提供し、友を増やしていきたい。
旧開智学校が国宝になるし、お城周辺は特別に快く美しいものに整備する必要があり、市役所は今の場所で無いのがよい。
市役所移転のこの時こそ、市役所機能を(例えば7ブロックに)分け、それぞれの地区の特徴を伸ばし、稼ぐ力もつけ、自分たちの手で未来を作り上げてゆく仕組みへの、転換のチャンスです。
この機会を逃したら、人口減少の時代の波にのまれて、松本も寂れていくでしょうね。ここで踏ん張り、多くの人がこの街で暮らしたくなるライフスタイルを、作り出しましょう。
と、これ、今日の臥雲さんの演説です。

議員さんから「市民の意見を聞くように」「エリア全体を考え、城を中心に発展出来るプランを」などが、要望として出されただけで、簡単に終わりました。
午後6時からは、臥雲義尚さんの駅前演説です。
直前まで豪雨の予報で、黒雲怪しく、冷たい風と雨もポツリ。でも、演説が始まったら、すう〜〜と明るくなり、陽射しも見えました。演説が面白かったからね。
14年前に松本市となった四賀地区は、合併後に人口が1000人減り、最後のスーパーが撤退し、交通の便も悪くなり(市内まで片道500円かかり通学生の負担が大きく、バスの回数券は四賀の役場では買えない)、不便になってさらに人口が減少、の悪循環です。
しかし、市全体を画一的に考えず、多様性を尊重すれば、この図式から脱却し、人が集まり賑わって暮らすことが出来るかも知れない、と。
例えば四賀村と同じ時期に合併した旧安曇村は、合併前、0歳から英語に接する機会・気風がありました。
中学校では放課後、外国人の先生が、英語を教え、村はそのことを誇りにしていました。
しかし、合併後は、英語の先生の給料を市が認めなかったので、その教育文化は消滅。市の教育はどこも同じでなければならない、というのが理由でした。
しかし、このような教育は、今、東京などでは憧れのまとです。もし四賀村の英語教育が存続し成果があがっていたら、市内の他の地区にも伝播し、子育て世代の家族が大勢移住してきて、過疎は無かったかもしれません。
人口が減り不便になり、更に人口が減る、というのは、明日の松本の姿でもあります。
これから一緒に松本を支えて行く外国由来の人々には、日本で最先端を行く日本語教育の場を提供し(松本なら可能)、共に手を取り合って末永くこの街を繁栄へと導きたい。
訪れる観光客やレジャーの人々には、何度も来たくなるような、長居をしたくなるような、環境を提供し、友を増やしていきたい。
旧開智学校が国宝になるし、お城周辺は特別に快く美しいものに整備する必要があり、市役所は今の場所で無いのがよい。
市役所移転のこの時こそ、市役所機能を(例えば7ブロックに)分け、それぞれの地区の特徴を伸ばし、稼ぐ力もつけ、自分たちの手で未来を作り上げてゆく仕組みへの、転換のチャンスです。
この機会を逃したら、人口減少の時代の波にのまれて、松本も寂れていくでしょうね。ここで踏ん張り、多くの人がこの街で暮らしたくなるライフスタイルを、作り出しましょう。
と、これ、今日の臥雲さんの演説です。


今日の3つのトピックは、どれも大きく心を動かされました。
写真1は、Mウイング(中央公民館)で開催の、松本国際ふるさと祭り「こいこい松本」にて。
今年で10回目のこのお祭りは、年々活況を呈していますが、今日も大盛況です。フィリピンブースでは、臥雲さんが嬉しそうに働いていました。
写真2は、勤労福祉会館で行われた講演会「戦時下の松本」で、お話しを終えた小松芳郎先生です。
入場料が必要な講演会なのに開場は満席、という理由が、よくわかります。お話しの内容が凄い❣
先生がお尋ねし、直接お話しを聞いて聞き書きにまとめた戦争の記録は、100人とも200人とも知れない、とのこと。
その中で、今回は、 1・松本歩兵50連隊から南方へ出征した兵士の壮絶記録と、
2・満蒙開拓におもむき、ソ連国境で軍事的防波堤として、国家に収奪される食料製造人として働かされ、見捨てられた人々の聞き書き、
3・戦争末期に松本へ疎開して来た、4400人の児童の日常の思いを、丁寧に描き出しておられました。
そのお仕事や、凄い❣
小松先生は松本文書館を長年牽引され、現在は文書館の館長をされていますが、文書館に収納の歴史的文書まで、自ら作り出していたのです。
写真3・4は、夕方に来訪の8人のお客さま(マレーシア人5人、安曇野の家族3人)。
皆でイスラムバージョンの晩ご飯を食べ、着物の5人は手足を洗ってから、別室で静かにお祈りをされていました。
日常に神が共にいる人には、親近感を覚えます。



写真1は、Mウイング(中央公民館)で開催の、松本国際ふるさと祭り「こいこい松本」にて。
今年で10回目のこのお祭りは、年々活況を呈していますが、今日も大盛況です。フィリピンブースでは、臥雲さんが嬉しそうに働いていました。
写真2は、勤労福祉会館で行われた講演会「戦時下の松本」で、お話しを終えた小松芳郎先生です。
入場料が必要な講演会なのに開場は満席、という理由が、よくわかります。お話しの内容が凄い❣
先生がお尋ねし、直接お話しを聞いて聞き書きにまとめた戦争の記録は、100人とも200人とも知れない、とのこと。
その中で、今回は、 1・松本歩兵50連隊から南方へ出征した兵士の壮絶記録と、
2・満蒙開拓におもむき、ソ連国境で軍事的防波堤として、国家に収奪される食料製造人として働かされ、見捨てられた人々の聞き書き、
3・戦争末期に松本へ疎開して来た、4400人の児童の日常の思いを、丁寧に描き出しておられました。
そのお仕事や、凄い❣
小松先生は松本文書館を長年牽引され、現在は文書館の館長をされていますが、文書館に収納の歴史的文書まで、自ら作り出していたのです。
写真3・4は、夕方に来訪の8人のお客さま(マレーシア人5人、安曇野の家族3人)。
皆でイスラムバージョンの晩ご飯を食べ、着物の5人は手足を洗ってから、別室で静かにお祈りをされていました。
日常に神が共にいる人には、親近感を覚えます。




午後1番は、児童館で「こどもの権利学習講座」がありました。
長野県では松本市だけにある「こどもの権利条約」の活動の一端です。
「こころの鈴」の相談員さんによる、紙芝居や絵カードを使ってのお話し。
「嫌な事って、どんなことがある❓」
「そんな時、どうする❓」と問いかけ、答えを引出しながら、
「嫌なことを我慢していると、死んでしまう事もあるのよ。我慢し続けていると、心が病気になるの。
身体のケガや病気と同じで、大人の人に言って、治したり、手当をしなければならないの。もし、相談する人が近くにいなかったら、私たち「こころの鈴」に電話をしてね。
0120_200_195です。タダでいくらでも話せます。公衆電話なら、始めに10円いれて、ダイヤル回すだけ。電話が終わったら10円も戻ります。
秘密は絶対守ります。本人の許可がなければ、他の人には、絶対言いません」。
なんと素晴らしい活動でしょう❣ 全ての子供と大人に知らせたいです。
午後第2段は、中央図書館3Fで「ユタ日報・松本研究会総会」。会員ではないけれど、お声を掛けて頂き、資料を読んだら、「ユタ日報」の価値に驚愕したので。
「ユタ日報」は、戦前・戦中のアメリカ・ユタ州ソルトレイク市で、日本人向けに発行されていた新聞です。
当時の日本の言論統制下では書けない、世界情勢の分析、事実隠蔽の誤報道を繰り返す日本政府や新聞への危惧を率直に書いています。
結果、日本の戦争への道と、その先にある壊滅的な敗戦を的確に予想していました。
外の目で状況を見る事は、生死を分つ重要な事ですね。
講演も、面白かったです。東大農学部の小林和彦先生曰く
「イノベーションは、意図して起きるものではありません。オープンな心で、偶然に助けて貰いながら、面白がってやっていると、たまに起こる」ものだとか。
「農業は、日本中・世界中に農業者がいて話を聞け、その中から面白がって発展出来るけど、原子力関連はダメですね。ごく少数の専門家だけで何か考えても、良くはならない」と。
写真2と3の「ユタ日報研究・24」は、202ページの、モーレツ読み応えのある冊子です。


長野県では松本市だけにある「こどもの権利条約」の活動の一端です。
「こころの鈴」の相談員さんによる、紙芝居や絵カードを使ってのお話し。
「嫌な事って、どんなことがある❓」
「そんな時、どうする❓」と問いかけ、答えを引出しながら、
「嫌なことを我慢していると、死んでしまう事もあるのよ。我慢し続けていると、心が病気になるの。
身体のケガや病気と同じで、大人の人に言って、治したり、手当をしなければならないの。もし、相談する人が近くにいなかったら、私たち「こころの鈴」に電話をしてね。
0120_200_195です。タダでいくらでも話せます。公衆電話なら、始めに10円いれて、ダイヤル回すだけ。電話が終わったら10円も戻ります。
秘密は絶対守ります。本人の許可がなければ、他の人には、絶対言いません」。
なんと素晴らしい活動でしょう❣ 全ての子供と大人に知らせたいです。
午後第2段は、中央図書館3Fで「ユタ日報・松本研究会総会」。会員ではないけれど、お声を掛けて頂き、資料を読んだら、「ユタ日報」の価値に驚愕したので。
「ユタ日報」は、戦前・戦中のアメリカ・ユタ州ソルトレイク市で、日本人向けに発行されていた新聞です。
当時の日本の言論統制下では書けない、世界情勢の分析、事実隠蔽の誤報道を繰り返す日本政府や新聞への危惧を率直に書いています。
結果、日本の戦争への道と、その先にある壊滅的な敗戦を的確に予想していました。
外の目で状況を見る事は、生死を分つ重要な事ですね。
講演も、面白かったです。東大農学部の小林和彦先生曰く
「イノベーションは、意図して起きるものではありません。オープンな心で、偶然に助けて貰いながら、面白がってやっていると、たまに起こる」ものだとか。
「農業は、日本中・世界中に農業者がいて話を聞け、その中から面白がって発展出来るけど、原子力関連はダメですね。ごく少数の専門家だけで何か考えても、良くはならない」と。
写真2と3の「ユタ日報研究・24」は、202ページの、モーレツ読み応えのある冊子です。


