連載606。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー②開産社と博覧会ー40 
 (博覧会の会場の片隅で、連綿社の役員の声を、正彦が辰致に教えてくれました。語りは糸)

 正彦さんは続けます。
 「連綿社の方々の心配は、さらにこんなんがあります。
 『臥雲さんのガラ紡が認められるのはうれしいだが、それは、おらたちが沢山の出費をして協力したからだもんな。これからは、臥雲さんにも、出資をしてもらうずら』とか、
 『これまでは、臥雲さんは坊さん崩れで、一文なしだったから、おらたちが費用の一切を持ってきただが、機械を売ったお金が臥雲さんに入るなら、大工の日当や材料を差し引いても、儲けはあるずら。これからの連綿社の工場などの必要経費は、臥雲さんも含め全員が同じだけ出費し、儲けは四人で平等に受け取るのがいいだじ』とか、 
 『臥雲さんは、機械を発明したり、改良したり、作ったりするのが好きそうだいね。そして、その機械を広く役立てたいのせ。だでね、一番心配なのは、臥雲さんが連綿社の仕事より、機械を広めるほうがおもしろくなって、連綿社を離れてしまうことだじ。おれたちとしたら、なんとか、臥雲さんを引き留めて、連綿社に居てほしいだもの』とかね」
 正彦さんは、役員の方々の声を、こんな風に要約してくれました。
 辰致さまは「特許の制度がない今、機械を買いたいと言ってくれる人がある以上、発明の権利はさて置き、機械の販売をして広めたほうが、全体のためではないだろうか」と考えていました。
 正彦さんは、辰致さまの機械を初めて見た五年前から、この機械は専売特許を取るべきだと確信し、特許制度が取り下げらたにも関わらず、特許申請の提出を進言した人です。ですから、今機械を売るのは時期尚早と思っていましたが、そうも言ってられなくなったのです。
 正彦さんも「特許を取るべき臥雲さん自身がそう言うなら」ということで、二人の意見は合意しましたが、問題は、連綿社の他の役員が不安に思っていることを、解消することでした。
 連綿社頭取の波多腰六左さんはじめ、武居美佐雄さん、青木橘次郎さんは、機械の製造には反対だったからです。

 (次回、連載607に続く。
 一昨日の4月9日水曜日に、松本フォークダンスのお仲間と、例会で踊ったあとに松本城まで夜桜を見に行きました。5分咲きくらいかな? ライトアップで松本城の黒と白が冴えわたり、すごくきれい!)

連載605。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家-②開産社と博覧会ー39 
 (西洋式では、紡糸機に掛ける前に、綿をくしで梳(す)いて束ねる行程が必要でしたが、ガラ紡は綿をそのまま筒にいれれば紡げ、費用は十六分の一で済みました。博覧会では人だかりができ機械を買いたい人もいました)

 上野の寛永寺で、毎日寝食を共にして準備を進めていた辰致さまと武居正彦さんは、このことを真剣に話し合っていました。
 さらに、辰致さまと一緒に出品の準備をする正彦さんは、父の武居美佐雄さんから、重大な使命が課せられていたのです。
 波多腰六左さんからの強い要望で、同志的な今の繋りから、連綿社を会社組織にしていきたい、というもので、連綿社の行く末を危惧する他の役員の声でもありました。
 準備作業の合間や、博覧会開催後の会場の片隅で、正彦さんは辰致さまに、こんな話をしてくれたのです。
 「あのな、臥雲さん、臥雲さんは工場やガラ紡づくりや博覧会の準備に没頭していて、気がつかないでしょうが、今、役員から、いろいろな声が上がっているのです。連綿社の方々は、いろいろ心配をしておいでなのです。例えば、こんな声です。
 『おらたちが、やりたいのは、綿紡糸と綿織物の製造ではないか。だでね、機械の販売は、断ればいいだじ』とかね、あるいは、
 『機械が広まって、あちこちで綿紡糸が手際よくできたら、うちらが儲からないずら』とか、あるいは
 『おらたちは、臥雲さんに工場の機械の面倒を見てもらい、紡糸と織物が順調にゆくようにしてほしいだいね。その仕事にたいして、臥雲さんに給料を払う、ということにしたいのせ』とか
 『ガラ紡を欲しい人が増えて、少しだども、販売もしているずら。博覧会でも七十五円です、と値段がついているだじ。機械の販売は連綿社ではしない、と以前に決めただから、販売は臥雲さんの仕事だけぇが、ほいでも、それで、連綿社の仕事がはかどらないのは、困るずら』とか、
 『何よりもまず、川澄さんの土蔵にある五台の太糸紡糸機を、工場へ運ばなならん』とかです」と。

 (次回、連載606に続く。写真は、はな水ぽたぽたの花粉症に効くツボです。もっと効いたのは、整体師さんの施術でした。お知らせまで)

連載604。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー②開産社と博覧会ー38 

  ガラ紡は、松材を輪切りにした糸巻きで、機械の上部の四十の糸巻きが回り、これらは全体を動かす手動のハンドルに連動しています。一つの機械の一つの動力で、糸紡ぎと巻き取りが同時にできる、画期的な設計でした。
 綿を筒の大きさに巻き、竹のささらの間に挟んでブリキの筒の中に入れ、竹のささらを抜き取れば綿はブリキの筒に入ります。この加減が悪いと糸が切れやすくなり、糸が切れた時は、糸の端を引っ張り、綿(わた)にくっつければ繋がりました。
 これまで輸入した洋式紡績機は、全国で、鹿児島、堺、東京滝野川の三つの工場にしかなく、行程が複雑なうえ、日本で生産される丈の短い木綿には適応せず、効率の悪いものでした。
 同じ量の糸を紡ぐのに、ガラ紡は、西洋式機械の十六分の一の費用しかかからなかったのです。
 洋式の紡錘機械は、手から糸を繰り出す感触を機械で作り出すことが出来ず、ヨーロッパの産業革命ではそれを諦め、そ綿(綿わたを櫛ですく、コーミングする。綿の繊維を一方方向に揃える)し、それを丸めて、綿を細い鉛筆くらいの棒にし、ドラム缶に詰め、そこから、糸を引き出す方式で発展してきました。
 しかし、ガラ紡は、手紡ぎの糸の感触を残す機械をめざし、綿がどのくらい引き出されるかに挑み、これを機械が自動で行い、かつ天秤機構の自動制御で糸の太さも調節できたのです。世界最先端の技術でした。
 ガラ紡は会場で実演されたので、参観者の驚きは大きく、この機械を買いたい人もでてきました。
 機械を欲しいという人には、どうしたらよいか。
 次なる大問題が控えていました。

 (次回、連載605に続く。写真は妹が送ってくれた、東京の夜桜。夜桜巡りをしたもよう。播磨坂、小石川、茗荷谷、九段下、千鳥ヶ淵、など、憧れの地名が並んでいました。松本の満開はあと数日先のようです)

連載603。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー②開産社と博覧会ー37 
 (明治10年、東京上野の森で、第一回内国勧業博覧会が始まりました)

  開会式の当日は、前日の夕方から降り続いていた雨が上がり、雲間から朝日が輝いていました。秋を告げる風が上野の森を吹き抜け、各地から集まった人々で、立錐の余地もない程の混雑です。
 明治天皇は大礼服に勲章を付け、レンガ造りの美術館前にしつられた、二段構えのひな壇の上にいて、第一回内国勧業博覧会の開会を宣言しました。
 隣の皇后は、紅梅色の薄衣に緋(赤の絹)の半袴で、輝くばかりの和装です。天皇を始め居並ぶ殿方はすべて洋装だったので、皇后の和装はひときわあでやかでした。
 博覧会担当の内務卿大久保利通総裁、三条実美太政大臣、岩倉具視、伊藤博文、寺島宗則の各大臣、主な官吏と皇族方、各国大使がずらりと並んでいます。 
 遠くから上京する人も多く、会場の入り口では、入場券を握りしめた人々が列をなし、新聞によれば、「押し合い押し合い、我れ先にと入場する様は、官軍の賊梁に押し寄するもかくばかりかと思われ」と書かれていました。
 殖産興業に力を入れる政府の呼びかけで、機械館には、新工夫、新意匠の製品がぞくぞくと出品されています。
 機械館に設置されたガラ紡は、一間間口の押し入れより少し小さいくらいの機械で、その大きな機械が紡糸の実演もしていたので、一段と参観者の目を引いていました。
 『出品解説』には、「ガラ紡機は、工夫一人にして、ひと月細糸88貫目、太いと72貫目を製出する。棉(綿)は甲斐、尾張の産をもちう」と書かれていました。
 四十錘のブリキ製の筒が二列に並び、綿を詰めた筒の一本一本から、同時に糸が引き出され、撚(よ)られ、巻き取られていきます。
 錘の下にはそれぞれ天秤が取り付けられ、糸の太さの調節を自動で行い、これは、世界的にも最先端の自動制御の仕組みだと高く評価されました。

 (次回、連載604に続く。
 写真は、ある国の王女さまの、5歳になった誕生祝いの一コマです)

連載602。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー②開産社と博覧会ー36

 一度解体した出品用のガラ紡を、松本から東京へ運び、再び組み立て、博覧会の展示場に運びこむのは至難の業です。
 臥雲辰致、市川量造、金井東吾の三人の上京に合わせ、東京の同人社で学んでいる武居正彦さんも合流し、開産社の精鋭東京組は、上野桜木町の寛永寺大慈院の台所を借りて、機械の組み立てを始めました。
 辰致さまらが宿所とさせてもらった、寛永寺の表門の上には、博覧会を祝って大時計が掲げられ、会場の上野公園入口には、高さが三丈余(およそ10m)もあるアメリカ式風車が回っています。
 上野の東照宮前から公園にかけては、数千個の提灯(ちょうちん)が祭りの華やかさを盛り上げていました。
 上野公園の約三万坪の敷地に美術館、工芸を陳列した東西の本館、農業館、園芸館、機械館、動物館が建てられ、ガラ紡は機械館に収められました。
 この年明治十年二月に始まった西郷隆盛の西南の役は、まだ決着していませんが、第一回内国博覧会は、八月二十一日から十一月三十日までの百二日間の予定で始まりました。入場料は、平日七銭、日曜日十五銭で、職人の日当の二割ぐらいです。
 北は北海道開拓使から、南は琉球藩まで、総出品人数は一万六千百七十四人、出品数は八万四千三百五十二点。機械部門の出品数はニ百十一点、繊維関係機械が六十三点です。
 このうち、紡績機は六点で、この中の一つに、政府が探しだしたアメリカ製の手回しフライヤ精紡機もありました。もちろんガラ紡もあります。同じ長野県からの綿紡機は、斎藤曽右衛門さん・倉島兵蔵さんと、瀧口重内さんが出品していました。

 (次回、連載603に続く。
 写真は、ある国のお姫さまが、自慢の長い髪を切った日のことです。短い髪もよく似合う、可愛いお姫様でした)

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