日曜日の午前中に持つ集まりを、プロテスタントでは礼拝と言い、カトリックではミサと言うようです。
 今私が行っている無教会派では集会といい言いますが、この違いは方言のようなもの。
 地方により、多少の違いはありますが、内容はほぼ同じです。郷に入れば郷に従え、ですが、従う必要のない時は、ついついお国言葉が出、私は、礼拝と言っています。
 牧師、司祭、先生、の違いも、同じようなことみたいです。
 各家庭で、父の呼び名が、お父さん、おやじ、パパと違うのと同じです。
 ちなみに、各家庭には、父親はたいてい一人で(遺伝子的には確実に一人)、父が子を愛している場合、
「お前の父は私一人だぞ、私がお前を養うから、お前もそのつもりでいてくれ」という言うのは、ごく普通のことでしょう。
 一神教の精神というのは、そういうものではないかと思います。

 で、本題。
 例えば、一昨日の礼拝にて。
 冒頭の讃美歌は527番で、ページを開けて歌ってみたら、こんな歌詞です。
「・・・シオンの娘語れかし、わが命の主に、野辺にてか幕屋にてか、会いまつらざりし・・・・」
 この歌の聖書の引用は詩編で「主によって喜びをなせ、主はあなたの心の願いをかなえられる」
 最後の歌は、賛美歌298番で、曲はシベリウスのフィンランディアです。
「やすかれ、わが心よ、主イエスはともにいます。
 み国はやがて来たらん。
 憂いは永久に消えて輝くみ顔仰ぐ、命の幸をぞ受けん」。
 信仰とは、不思議なものです。
 日曜の朝に、こんな言葉に触れることによって支えられるのです。
 この言葉の杖にすがるように、この一週間を過ごします。

< 2015年11>
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石上 扶佐子
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