連載348。小説『山を仰ぐ』第5章・栄弥―②俊量が語る青年栄弥―10
 (前回は、安政年間におきた、激甚大地震の数々でした)

 嘉永七年(安政元年・1854年)は、わたくしの上にも大きな変化がありました。師の俊水さまが入滅なさり、わたくしが、弧峯院の首座を勤めることになったのです。
 弧峯院での始めの十二年は、俊水さまのお側に仕えて、僧侶になるための修行と学びをしました。村の中での寺の役割や、人が仲良く暮らす方法も教わり、楽しい日々でしたね。
 俊水さまが六十歳を前にお亡くなりになり、わたくしが弧峯院を継ぐことになったのは、若さを買われたからです。
 わたくしより年上の尼さまもいらしたのですが、その方はお年を召していて、寺の中の仕事がお好きでした。表仕事はわたくしが勤めるようにとの、俊水さまの遺言があったのです。数えの二十九歳のことでございます。
 弧峯院の首座になって初めての仕事は、「妙典一千部」の石塔を建てることでした。大乗妙典を千回読経した記念に、石塔を建立することが俊水さまの遺言でね、翌年の六月が除幕の法要と決まっていました。
 妙・典・一・千・部の五つの大きな字を彫り石塔を作ったのは、岩原の新吾右衛門さんですよ。安楽寺大門の近くの小池さんの長男です。山口家の側の。
 岩原は、常念岳の急峻な山肌を削って流れる烏川の扇状地で、大小の岩でできた、まさに岩原です。岩ばかりで作物ができないですから、新吾右衛門さんは、若い頃、飼っていた牛二頭を連れて、山へ木を伐(き)りに行っていました。
 山は夏でも涼しいですが、冬はそれはそれは寒いでしょ。そんな寒い冬のある日、新吾さんは河原の暖かい場所で石割をしている石工を見て、とても羨ましくなったそうです。それで、石工になったんですって。

 (次回、連載349に続く。
写真は、今年の夏の思い出。家族に集まってもらえる家を持つのが夢)


< 2022年10>
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石上 扶佐子
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