連載546.小説『山を仰ぐ』第8章発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー11ー
2024/12/08
連載546。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー①糸が語る波多の臥雲辰致ー11
(明治七年の春から夏、辰致は河澄家の測量の為に岩原から波多へ通いました。測量の前後の片道4里の往復はなかなかに大変でした)
その年明治七年三月は、筑摩権令の永山盛輝さまの肝いりで、金融と産業振興の勧業社が発足し、波多方面では、辰致さまの機械が話題に上ることも多くなりました。
波多では、辰致さまの発明した機械で、綿糸を効率よく紡ぐ産業を起こしたい、という希望が高まっていたので、測量の他に、水車や機械の打ち合わせも増えていったのです。
その寄り合いで、西洋の飛び杼のことが話題になり、辰致さまが非常に興味をもたれともお聞きしました。飛び杼は日本ではバッタンなどと呼ばれ、西洋へ行った西陣織の留学生が持ち帰り、この年(明治7年)四月の第二回京都博覧会で紹介された、すぐれた道具だそうです。
寄り合いが夜ならば、辰致さまは、川澄の家で一泊することもありました。そんな時は翌日も測量をしたので、きっとお疲れだったでしょうね。岩原でお待ちのキヨさんも、さぞやはらはらしていたことでしょう。
河澄家の農地や山林は思ったよりも広く、九月末日の実測書類提出期限に間に合わすために、九月にはいったら、糸もうちの男衆と一緒に駆り出されて、なかなかに大変でした。
もっとも、糸は、辰致さまの元で仕事ができて嬉しかったですよ。辰致さまは全く気付いてはいませんでしたが、私は、たびたび、辰致さまの美しい仕事っぷりから、目が離せなくなっていたのです。外仕事は暑かったですが、誠に幸せな時間でした。
(次回、連載547に続く。
写真は、野菜のプレゼントに恵まれた後の、八宝菜と大根ステーキ。ストーブ料理の大根ステーキは、ネギ味噌で食べるので、途中からネギを投入。この後味噌を絡めました。鍋は直径26センチと24㎝です)
(明治七年の春から夏、辰致は河澄家の測量の為に岩原から波多へ通いました。測量の前後の片道4里の往復はなかなかに大変でした)
その年明治七年三月は、筑摩権令の永山盛輝さまの肝いりで、金融と産業振興の勧業社が発足し、波多方面では、辰致さまの機械が話題に上ることも多くなりました。
波多では、辰致さまの発明した機械で、綿糸を効率よく紡ぐ産業を起こしたい、という希望が高まっていたので、測量の他に、水車や機械の打ち合わせも増えていったのです。
その寄り合いで、西洋の飛び杼のことが話題になり、辰致さまが非常に興味をもたれともお聞きしました。飛び杼は日本ではバッタンなどと呼ばれ、西洋へ行った西陣織の留学生が持ち帰り、この年(明治7年)四月の第二回京都博覧会で紹介された、すぐれた道具だそうです。
寄り合いが夜ならば、辰致さまは、川澄の家で一泊することもありました。そんな時は翌日も測量をしたので、きっとお疲れだったでしょうね。岩原でお待ちのキヨさんも、さぞやはらはらしていたことでしょう。
河澄家の農地や山林は思ったよりも広く、九月末日の実測書類提出期限に間に合わすために、九月にはいったら、糸もうちの男衆と一緒に駆り出されて、なかなかに大変でした。
もっとも、糸は、辰致さまの元で仕事ができて嬉しかったですよ。辰致さまは全く気付いてはいませんでしたが、私は、たびたび、辰致さまの美しい仕事っぷりから、目が離せなくなっていたのです。外仕事は暑かったですが、誠に幸せな時間でした。
(次回、連載547に続く。
写真は、野菜のプレゼントに恵まれた後の、八宝菜と大根ステーキ。ストーブ料理の大根ステーキは、ネギ味噌で食べるので、途中からネギを投入。この後味噌を絡めました。鍋は直径26センチと24㎝です)