連載611。小説『山を仰ぐ』第8章・発明ー②開産社と博覧会ー45 
 (特許制度も取り下げられているのに、博覧会で好評のガラ紡の特許申請をしたいと、正彦は「新発明綿紡機専売願い」を提出しました)

 明治政府を樹立した人々や、それに協力した草の根の草莽の志士たちは、正彦さんに至るまで、なぜ、命をかけても維新を遂行したかといえば、日本を欧米の植民地にしたくなかったからです。
 特にイギリスの手口はよくよく知れ渡っていて、それは、イギリスの産業革命で大量に生産できるようになった綿糸と綿織物を、アジアの国々に安く輸出し、その国の綿生産と、綿糸綿製品生産の構造を破壊し、それによって国内に混乱を起こさせ、その隙をついて、各分野を掌握し植民地にしてくというものでした。
 そして、この頃、まさに、日本はそうした危機の真っただ中にありました。綿製品の輸入が全輸入の五割を超えようとしていたのです。国内の綿生産は激減し、綿糸綿製品の流入を防ぐことは急務でした。
 綿紡糸機は最も必要とされていた機械ですが、博覧会への出品は全国からたったの五点で、その中で実用に値するのはガラ紡だけでしたから、辰致さまがどれだけ最先端を歩まれていたかが分かるのです。
 第一回内国勧業博覧会の出品物を、国際的視野で評価したのは、博物館顧問のドイツ人ゴッドフレッド・ワグネルでした。ワグネルは数学と化学の学者でしたが、明治元年来日し、後に政府の御雇えとなり、博物館顧問として、日本の産業を指導していました。
 彼は、紡績を引用して、こんなことも言っています。
 「一人の女の手は、たた一つの紡錘(つむ)を回すだけだが、機械を使えば、一人で千以上の紡錘を使える。これほどの大きな違いは他の工業では見られないから、どの国でも紡績は一番早く普及した。日本でも、紡績設備は、初めから、出来るだけ大きくしたほうがよい」
 日本の紡績は、ワグネルのこの考え方で進みつつありますが、すぐには出来ないことは誰の目にも明らかで、大きな機械が稼働するまでの間、日本の綿生産と綿紡糸を絶やさないために、手軽な機械が何よりも求められていました。

 (次回、連載612に続く。
 写真は昨日のイースターのミサの後、お御堂の出口でフィリピンコミュニティの皆さまが、会衆に配って下さった、イースターの卵と、卵が入っていた可愛い袋。上手に湯がけて美味しかったです。パーティは大盛況で、ベトナムコミュニティのみなさまのフランスパンサンドも超美味しかった‼️)

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石上 扶佐子
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