焼き場の少年。
2018/08/05

今日のミサで神父さまは、ヨハネの6章の24~35を読み、イエスと群衆が「かみ合ってない」と言われました。
「群衆は、数々のしるしを、しるしとは思わず、しるしを認めない。恵みを受け入れるのは難しい」と。
群衆とは、私のことですから、自分の胸に手を当てれば、確かにあるのです。かみ合っていないこと、受け入れられないこと。
しるしは解ります。しかし、しかし、現実は、、、、、。と言っているのが、受け入れてはいない証拠です。
主よ、今日こそ、解りました。解りましたから、よろしく。
ミサの最後に、神父さまは1枚の写真を取り出して言われました。「これは、ローマ教皇が、全世界に配布するようにと指示した、原爆投下後の長崎の「焼き場の少年」という写真です」。
この写真を撮ったカメラマン(アメリカ人)のコメントによれば、少年は写真の様に直立不動で待っていた後、順番がくると、背中の妹を土の穴にそっと横たえました。
その小さな身体に火が付けられ、その火が少年の頬を赤く染め、一瞬輝くように大きく燃え、燃え尽きるのを、写真のように、はだしで、直立不動のまま、凝視していたそうです。
口は固く固く結ばれ、唇の内側からは血が滲み出ていたけれど、あまりに固く閉じられた口から、それは溢れ出る事はなかったと。
燃え終わると、少年は、黙ったまま踵(きびす)を返し、静かに立ち去ったのだと。
この写真の少年は、それから、どうしたのでしょう。戦後をどのように生きたのでしょう。彼の哀しみは、どのようにして、あながわれたのでしょうか?