連載580。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー②開産社と第一回内国勧業博覧会ー14

 開産社に展示する二台の機会を運搬し、開産社内の連綿社を始動させるために、辰致さまが女鳥羽川沿いの開産社に住み始めたのは、五月半ばでした。
 その新緑の五月、女鳥羽川を挟んだ対岸の本町には、開校からひと月にも満たない開智学校の真新しい校舎が、輝くように建っていました。
 開産社も開智学校も、千歳橋の近くから、女鳥羽川沿い西に延びています。女鳥羽川を挟み、北岸に開産社、南岸に開智学校が、ありました。
 少し前までは大手橋と呼ばれ、今は石橋に変わって千歳橋と呼ばれるようになった町の中央の橋は、南の商業地本町と、北のお城や大名町をつないで、賑わいはいよいよ盛んです。
 その千歳橋付近は、ほんのひと月前の四月二十二日、開智学校の開校式のために、七千人の来客と一万二千人の参観者が行き交い、お祭りのようでした。それより前の上棟式の折は、人力車や馬の往来ができない程の見物人だったそうです。
 何故かというとね、その学校は、洋風っぽい二階建ての、それはそれは美しい建物でしたから。今まで誰も見たことのない、夢のような学校だったのです。開学当時、千三百十八人の生徒と十八人の先生がいました。
 辰致さまが寝起きしていた、工場予定の建物からは、開智学校の東西に延びた教場校舎しか見えません。
 でも、校舎の東の外れから南へ直角に曲がって続いている正面の建物には、中央の玄関と車寄せの二階にバルコニーがあり、その上の屋根には、回廊のついた八角形の塔屋ついています。
 外壁は漆喰で白く明るく、校舎の窓はガラスでした。内装には外国から取り寄せた色ガラスが、二千五百枚もつかわれて、外も内も輝くようなのです。カットガラスを意味する「ギヤマン校」の愛称で呼ばれていました。 

 (次回、連載581に続く。
 写真1は、前回投稿の写真があった雑誌のページの、裏側に載っていた16年前の農場主。写真2は、13年くらい前の「おぐらやま農場だより」より。集合写真の端には、なんと着物をきている私がいました)

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石上 扶佐子
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