連載581。小説『山を仰ぐ』第8章・発明家ー②開産社と博覧会ー15
 (辰致が仮住まいを始めた開産社は、女鳥羽川を挟んで、対岸に開智学校がありました)

 開智学校が建ったのは、以前、戸田家の全久院があった場所です。
 戸田の殿様が、維新後松本藩の知藩事となった時代、廃仏毀釈を勧めるために、率先して自分の菩提寺の全久院を廃寺にし、藩学の後継の県学を置いたのです。
 その場所に、筑摩県権令永山盛輝さまの奮闘により、明治六年、県下初の小学校開智学校が県学を継いで創立され、開智学校には県下で唯一の英学(洋学)の科目が置かれました。
 開智学校の正門は、正面の建物よりもさらに東の千歳橋寄りにあり、その場所の対岸あたりに、開産社本部の大名屋敷があったので、
 「少し前の開校式の賑わいを、よくよく見物できた」、と父の河澄東左が言っていました。
 父は、連綿社が入る予定の開産社の下見、という理由をつけて、開智学校の開校式の日に松本に行き、開産社本部から対岸の模様を見物していたのです。飴市にも毎年必ず行く父ですから、父はご城下の賑わいが大好きなのでした。
 開智学校は、建設費一万一千円の七割を、松本町全住民の寄付に依っています。開産社も筑摩県下からあまねく出資を仰いでいます。
 開智学校も、開産社も、筑摩県の初代権令永山盛輝さまが力を尽くして推進したもので、開産社にとって永山権令の後押しは大きな力でした。が、その永山さまは、前年の十月に新潟県の権令に任命されて松本を去られていました。
 開産社にとってさらなる痛手は、辰致さまが松本に行ってから一か月後の六月十九日、松本城の二の丸にあった筑摩県の本庁が、焼失してしまったことです。地租改正の書類も皆焼けてしまい、開智学校が一時仮庁舎となりました。

 (次回、連載582に続く。
 可愛い人の可愛い写真は、叔母と姪・おばとめい、の関係です。5年前)

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